しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」五月雨を集めて早し最上川   (山形県最上川)

2024年08月20日 | 旅と文学(奥の細道)

最上川は山形県の延長229kmの川。
米沢・山形・尾花沢・鶴岡・酒田・・、山形県の全主要都市を流れる。
”日本三大急流”で難所もある。
江戸時代には最上川の治水事業や河道整備がつづけられた。


近年は観光舟下りやテレビドラマ「おしん」の舞台としても人気の地。
観光舟下りは、流れがいちばん穏やかなとろをのんびり舟遊びの感じだが
芭蕉が詠んだ最上川は、たぶん難所の最上川だろう。
”集めて早い”のは危険な最上川に違いない。

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旅の場所・山形県寒河江市・酒田市  
旅の日・2022.7.12                
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。

ひらた船
ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。
 

小鵜飼(こうかい)船
江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢~酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10~12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。

明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。
船運は急速に衰えた。

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「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


最上川舟運
西廻り航路の発達とともに、最上川舟運も一大発展をみた。
幕領、諸藩の年貢米のほとんどが上方へ運ばれた。
輸送路に恵まれない米沢藩は、仙台や新潟など一定していなかったが、巨費を投じて難所黒滝を開削をして、最上川下しとした。

奥羽線の開通
米沢に明治32年、新庄に明治36年、秋田県とは明治38年全通した。酒田線は大正3年に開通した。
最上川水運でにぎわった河岸場町のさびれようははなはだしかった。
本合海は、火が消えたようにさびれ
大石田は、船乗り・船大工は人力車夫や荷車引きになったり、移住していった。

 

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

さみだれをあつめて早し最上川

これも『おくのほそ道』の名句である。
毎日毎日降り注ぐ膨大な雨は最上川を今にも氾させようとしているように、轟々と流れている。
芭蕉は最上川の急流を下った経験もあり、水の力の強いことを身をもって体験してい た。
五月雨の雨の力が強いこと、それが洪水を起すように強い力を持っていることを、一句で言いつくしている。

 

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

さみだれをあつめて早し最上川

「荒海や」が、海島・天の三点セットだったのに、これは雨と川の二点セットだ。
前者が別々の存在であったのに、後者は同じ水という存在だ。
こういう具合に、
まったく違った自然の力を見事に詠みわけることのできる俳諧という表現形式に私は驚嘆するばかりだ。

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