「人に歴史あり」とはよく聞く言葉だが、
それは、あらゆる自然界や土地にも言える。
広島県深安郡大津野村津之下の牛の首は、風光明媚な海水浴場だったが、
第二次世界大戦中に海軍の飛行場が出来た。
敗戦後、
飛行場の場所に、進駐軍がやってきた。
その周辺には、飛行場県建設に連行されてきた朝鮮人が住み、あやしげな酒を売っていた。(当時の飲食物は、誰が売っていたのか問わず、全て怪しい)
その後、警察予備隊という軍隊が出来、
大津野飛行場跡は予備隊の人が暮らしていた。
(その頃、管理人は小学校の遠足で大津野の予備隊に来たことがある)
戦後、広島大学ができて、大津野飛行場跡は「広島大学水産学部」になった。
昭和36年頃、日本鋼管の進出が決まり、
牛の首は激変した。
今はもう、
戦前の海、
戦中の海軍基地、
戦後の警察予備隊、広島大学、その名残りは何一つない。
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2023年(令和5年)6月4日、
4年ぶりに「JFEフェスタ」(旧・鋼管祭り)が開催された。
場所・広島県福山市大門町津之下 (JFE駐車場)
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福山市は、江戸時代は城下町。
昭和40年以降は、日本鋼管の企業城下町。
あれから半世紀、会社名は変わったが今も福山は”鋼管の町”。
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かなり前に、大津野飛行場の事でコメントさせていただきました
実家近く、その朝鮮の人云々話、亡き父から聞いています
怪しい物ではなく、鋼管に労働しに来ていたとの事、不法労働かも知れませんし正規かも知れません
北と南の人が、ケンカをしていたのを見たと父が言っていました
(父は朝鮮語韓国語は分かりません) 雰囲気で察したのだと思います
また、近所のホルモン屋さんが、朝鮮系の人でした、とても良い人でした
そのお店萌も、別の朝鮮と日本のハーフの人に譲ってもらっていました
(合法的にだと思います)
それから20年後の鋼管建設工事には、
国内の余剰労働者が主に西日本から集まり、
鋼管及び関連作業員は鶴見から多く移動してきたように思います。
鋼管と呼びます
昭和34年生まれの私が、大津野幼稚園の時、当時は一年保育で、6歳の時に、
鋼管の先乗りの方々が来て、東京や神奈川から、入園した子がいます
小学校入学した時、1学年3クラス 1クラス分は地元の子、1クラス分は東京神奈川、もう1クラス分は、
炭鉱閉鎖の九州や仕事を求めて四国や島根などの子と、シャッフルしてクラス分けをしていました
鋼管関係の子は伊勢ヶ丘から通っていました