しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

城見の自治体

2015年06月27日 | 昭和21年~25年

自治体

明治22年町村制が発足し、岡山県小田郡城見村が生まれた。
村には村長と議員が置かれた。議員は名誉職で、村長は議員の相談で選出していた。村長は議長を兼ねた。
城見村の上部機関は郡であったが、大正15年に郡制度は廃止された。

昭和18年戦争体制強化の一環として、村長は県知事の認可が必要となった。

戦後の改革で村長は公選制となり、昭和22年に住民による初の村長選挙が行われた。
その後、昭和26年に二度目の村長・村会議員の選挙があった。昭和28年笠岡市へ合併に伴い、城見村と村長・村議は消滅した。
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城見小の進学先

2015年06月27日 | 城見小・他校

昭和(戦前)になると義務教育は6年であったが、それで就学が終了する人は稀だった。

男性の場合、
中学校(福中=誠之館・金中=金光学園高)や実業学校(笠岡商・神辺実業など)へ進学する人。小学校高等科(2年)で学び、就学終了する人と中学・実業へ進学する人がいた。中学校進学の人はそこで就学が終了する人が多かったが、師範学校(岡大教育)や陸軍士官学校や海軍兵学校に進む人もいた。高校へ進学する人は極稀だった。

女性の場合、
高等女学校(笠高)と小学校高等科(2年)に分れた。高等科を出る人は、就学終了の人と女学校(淳和・増川など)へ進学の人に分れた。高等女学校を卒業後の進学先は女子師範学校(岡大教育)にほぼ限定された。

男女とも城見小学校高等科(就学8年)で終了の人は、引き続き付設の実業補習学校や青年学校で1~2年学ぶ人が多かった。

昭和(戦後)は学制改革があり、城見小卒業後は大半の人が金浦中学校へ進学した。
高校進学は笠岡市と福山市が多い。
昭和30年代は男子の大学進学者が出始た。その当時の女性進学は短大だった。昭和40年代になると女性の進学も4年制が多くなった。

通学可能範囲の4年制大学は昭和30年代までは5校程度だったが、今は20~30校まで拡大している。それでも地元を離れ、遠い大学を希望する人は多い。
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茂平沖埋立工事

2015年06月27日 | 昭和41年~50年

昭和44年、茂平沖に埋立工事が始まった。工事は岡山県が行い、完成後は日本鋼管に供給する人口島。翌45年には日本鋼管大径管工場が操業されるという突貫工事だった。

工事の車両の為、新しい道路が出来た。新道は県境の坂里から茂平宮ノ下で曲り,苫無から茂平地先へ伸びた。その道を埋立土砂を積んだ大型ダンプカーが茂平沖の海上1.2kmの埋立地まで運搬した。この道路は茂平で初めての大型道路であり、内陸部分は昭和47年に茂平初の県道となった。

大径管工場用地造成後、岡山県が工業用地埋立、農林省が東西の干拓堤防工事を並行して進め茂平の海は昭和50年頃に消えた。
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茂平の道路

2015年06月27日 | 昭和41年~50年
茂平の道路
茂平から笠岡や福山に行くには大門駅から山陽線の汽車に乗るのが一般だった。大門駅には西ノ谷から徒歩で山越えが多く、自転車の場合は坂里峠か用之江経由で行っていた。
昭和33年にバスが開通した。笠岡駅発の茂平行で、園芸組合(農協出張所)が終点だった。番屋がキップの販売をしていた。
茂平からバスに乗る人は用之江で福山行バスに乗り替える人や、大の稲垣医院、土手の桑田医院へ通院する人が多かった。
昭和44年に茂平地先埋立のため、新しい道路が野々浜から八幡神社下経由で茂平沖へ伸びた。その後その道は、西半分が用之江と繋がり井原福山港線となった。南半分が日本鋼管笠岡門への道となった。

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海の想い出

2015年06月27日 | 昭和31年~35年

海の想い出

茂平では漁業の人は多くは無かったが、住む人みな海と関わりながら暮らしてきた。

風景・・・笠岡湾には漁船が浮かび、三洋汽船が黒い煙を吐いていた。沖には4~5艘繋がった運搬船がよく見えていた。山の畑から見る瀬戸内海は何処を向いてもきれいだった。
茂平港・・・エンジン付きの漁船と手漕ぎの農船が繋いであった。海は底まで見えていた。
鞆の祇園さん参り・・・港には観光船が来て、漁船もお参りに行った。笠岡の花火は漁船が見物に行っていた。
遊び・・・子供は夏休みの水泳(波止と苫無)場所だった。苫無では干潮になると小魚を獲って遊んだ。
貝類・・・あさりとツブを獲った。海草ではトコロテンを採っていた。
どんがめ・・網にかかったドンガメを食べることがあった。焼く時に独特な匂いがあった。
苫無の白砂青松・・・砂浜では漁師が網の手入れをし、網を焚く小屋が並んでいた。小学校の海水浴場にもなっていた。
夕涼み・・・暑い夜は樋門から波止の辺りで夕涼みをしていた。磯には夜光虫がいた。
樋門・・・樋門は男の子供たちの格好の遊び場で、樋門の上から上級生は下級生を突き落とし泳ぎを教えていた。
火葬場・・昭和40年頃まで死者は土葬だったが、伝染病で死んだ人が海岸で焼かれた。

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茂平から海も漁師も消えた

2015年06月27日 | 昭和41年~50年
3・ピリオドを打った漁労
茂平から海も漁師も消えた

明治9年の「皇国地誌」によると「漁船54艘 漁労50戸」とある。

大正13年の「小田郡史」によれば
「明治36年茂平漁業組合を設立し今日に至る。
組合員16人、専業者5戸、兼業者6戸。
壺網9人、打瀬網4人、投網1人なり。」

50戸から11戸に激減している。
その原因は打瀬網漁から定置網漁への変更が大きかったと思える。

漁漁者数は大正13年以降、城見漁協が解散(昭和44年)するまでほぼ変更していない。

壺網の場所は苫無・長瀬・国繁沖と決まっていて、毎年くじ引きで網の場所を決めていた。
他に蛸ツボ魚もあった。

漁師は朝、海に網をあげに行き,獲れた魚を伏越魚市場に持って行った。
戦前はエンジン付きの漁船が二艘しかなく代表者が持込みしていた。
その当時は近所の人が笠岡での買い物を頼んだり、店の仕入れ運搬も行っていた。
戦後はすべてエンジン付きの船になった。
漁師は午前中に漁業が終わると、午後は農作をする人が多かった。

昭和32年の収獲魚は
いかなご、いわし、ぼら、めばる、ちね、あなご、すずき、たい、かれい
(昭和32年笠岡市郷土資料集・城見による)

昭和37年、福山の日本鋼管の工事が始まる頃、漁師は既に高齢化していて子供はサラリーマンとして働いている家庭が多かった。

その後の笠岡湾の埋立や干拓では、漁業補償もスムーズに運び、半農半漁であった漁師は農家へ移行した。再就職あっせんは必要がなかった。

昭和49年頃、海も漁師も無くなった。
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