しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」波こえぬ契りありてやみさごの巣  (秋田県象潟)

2024年08月30日 | 旅と文学(奥の細道)

みさごの夫婦愛のような句。

芭蕉と曾良の旅は、酒田と象潟で佳境を超えた。
以後も越後・越中・加賀・越前へと旅をつづける。

 

・・・

「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


波こえぬ契りありてやみさごの巣   曽良

象潟の九十九島の中に鶚(みさご)島という名の島があって、
岩上にみさごの巣がかかっていた。
鶚は、雌雄の仲が睦じい鳥といわれている。
それが高い岩上に巣を作っているのは、波も越えることのできない夫婦の堅い契があってのことだろうか、
といったのである。

 

・・・

旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島  蚶満寺    
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・


・・・


「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

象潟は由利郡象潟町にかつてあった潟湖である。
文化元年(一八〇四)の地震で地面がもりあがり、緑の景観はなくなった。
昔九十九島といわれた島はほぼ残っていて、 昔の湯は水田になっている。
五月雨の季節に田に水をはって早苗を植えるころ昔の景観のいくぶんをとり戻す。

世の中はかくてもへけり象潟や あまの苫屋を我が宿にして  能因法師 (後拾遺集)

さすらふる我が身にしあれば象潟や あまのとまやにあまたたび寝む   藤原顕仲 (新古今集)

象潟の桜は波に埋もれて 花の上こぐの蜑(あま)の釣舟   宗祇(名所方角抄)


・・・

 

 

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

二十日も二十一日も快晴であった。三日に亘って続いた芭蕉、不玉、曽良の三吟歌仙はようやく完了した。
二十三日は近江屋三郎兵衛宅に招待された。 
近江屋は本町二丁目に住み、三十六人衆の一人で裕福な商人であった。
俳諧の嗜みもあり、俳号を玉志といった。招待されたのは芭蕉、曽良、不玉の三人で、
納涼の興に真桑瓜が出された。
「皆さんに句を作っていただきます。もし句のできないものは、瓜は召しあがれません」
とにかくたいへんなごやかな夜会であった。

 

二十五日にいよいよ酒田を出発することになった。
最上川の河口にある船に乗る渡し橋まで人々が見送りに来た。
不玉父子、徳左衛門、四郎右衛門、不白、近江屋三郎兵衛、加賀屋藤右衛門(任暁)、宮部弥三郎などであった。


酒田の滞在は象潟の三日を挟んで、六月十三日から二十五日に及んでいる。
不玉をはじめとして、道志など土地のおも立った俳人や富豪などと交歓し、かなり楽しくすごすことができた。

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「奥の細道」蜑の家や戸板を敷きて夕涼  (秋田県象潟)

2024年08月30日 | 旅と文学(奥の細道)

古代から昭和40年頃までの日本の夏は、国民ほぼ全員が夕涼みを楽しんでいた。
子どもとっては寝る前の楽しいひとときだった。
町の人は通りに縁台を出し、田舎の人は庭に涼み台を出し、それに座るだけ。
という単純な娯楽。

漁町の人は夕方から、翌日の天気を予想しながら海風にあたっていた。
象潟の人は”戸板を敷きて”の夕涼み。
どんな夕涼みもなつかしく感じるほどに、日本の夏から消えてゆく。

 

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島  
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

夜、宿に戻ったところへ、名主の今野又左衛門が訪ねて来て、
「この土地のいわれを書いた『象潟縁起』というものが伝わっていたのですが、
いつの間にかそれが 紛失して困っております。
ここへおいで下さった記念に、象潟の縁起をお書きいただきたいのですが」ということであった。
芭蕉は、「皆さんからお話をうかがって、できたら纏めて御覧に入れましょう」と応諾した。


美濃の国の商人宮部弥三郎という者が、芭蕉の来遊を知って、酒田から追いかけて来た。
俳号を低耳といい、言水の流れを汲む俳人であったが、生業は諸国を廻り歩く旅商人であった。
元禄元年(一六八八)、芭蕉が長良川の鵜飼見物をした時に同行したことがあるので、その足跡を慕って来たのである 。 
滞在中芭蕉のお伴をして歩いた。

象潟や蜑の戸を敷く磯涼み  低耳

という句を作ったが、これはのちに、

蜑の家や戸板を敷きて夕涼  低 耳

と改められて、「奥の細道」に採用された。 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 


低耳とは「随行日記』の十七日の条に「弥三郎低耳、十六日ニ跡ヨリ追来テ、所々へ随身ス」
とある低耳である。
また二十五日の条に、酒田を発つ芭蕉を船橋まで送った人々の名前に宮部弥三郎とあるのもこの低耳である。

素直なところを賞して芭蕉は『奥の細道』の中に書き加えたのであろう。
蜑(あま)の茅屋には戸板を敷いて磯涼みをやっている、と珍しがった句である。
低耳は美濃長良の人で貞享五年(一六八八) 芭蕉が長良川の鵜飼を見た時からのつき合いであるらしい。
其角の「枯尾花」に、
鵜飼見し川辺も氷る泪哉
と芭蕉の追悼句を詠んでいる。
またまた商用のついでに象潟に行った時芭蕉にめぐり会い、細道に一句を採用された。一期一会の縁である。


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「奥の細道」象潟や料理何くふ神祭  (秋田県象潟)  

2024年08月29日 | 旅と文学(奥の細道)

高校生の時、古文の授業の「奥の細道」で、【象潟】を初めて知った。
地図をひろげると、あった。秋田県地図の下の方に⛬象潟が載っている。

あまりに遠方で、その地を訪れることは想像もできなかった。
しかしそれから数十年経つと、行くことが想像できるようになり
象潟へ行ってみたいと思うようになった。

東京駅発のバスツアーで2022年、「象潟」に着いた。
象潟の田んぼ道を歩いていると、なんか夢の中のような感じがした。
バスが象潟を発車すると「ついに象潟にきた」と、自分ひとりの感動と満足にひたった。

 

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島  
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 

象潟や料理何くふ神祭    曽良


六月十七日は象潟の熊野権現の祭日であった。『書留」の十六日の条に
「佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借り濡衣干ス。 
ウドン喰、所ノ祭二付而女客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス」とあり、
「象潟や」はこの熊野権現の祭の句で、
村人はこの祭の日にいったい何を食うのだろう、といぶかったもの。
これではもう一つ奥へ届かない解釈だが、もともと句のモチーフに深みのない句である。

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

寺から宿へ帰ったところ、ちょうど土地の祭りの行列が通ったので、それを見物したりしているうちに、
朝から降っていた小雨がやんで日が照り出した。
昼食後、この町の鎮守である熊野神社に参詣して、踊りなどを見た。
早目に夕食を済ませて、象潟に舟を漕ぎ出した。
今野加兵衛という者が、茶、酒、菓子などを舟に持ちこんで、何かと面倒を見てくれた。

能因島に舟をつけて、能因法師が三年の間幽居したと伝える遺跡も訪ねた。
この島は六百坪ほどの 小島であるが、象潟九十九島の一つに数えられている。
蚶満寺のある島には、西行が「象潟の桜は波に埋もれて花の上こぐの蜑の釣舟』とよんだという桜の老木があって、
地蔵堂の前の汀に、枝を水面にさし出していた。

 

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「奥の細道」汐越や鶴はぎぬれて海涼し   (秋田県象潟)  

2024年08月28日 | 旅と文学(奥の細道)

汐越は浅瀬、象潟は潟湖。
鶴が海を見ている風景を詠んだ句だが、
涼しさがつたわってくるようだ。

現代の象潟は、潟湖時代の面影を彷彿させてくれるのが嬉しい。

 

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島      
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

十八日は快晴であった。
早朝象潟橋に行って鳥海山の晴嵐を眺め、海水の入江にはいる汐越のあたりで、鶴のおり立っている情景をみた。

汐越や鶴はぎぬれて海涼し  芭蕉

潮が満ちてひたひたと寄せてくる汐越に、鶴がおりている。
鶴の足は海水に洗われて、あたりの風景はいかにも涼しげであった。

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 


腰長は象潟が海に通じているあたりの浅瀬で汐越といった。
芭蕉の真蹟に「腰長の汐といふ処はいと浅くて、鶴おり立てあさるを」と前書がある。
汐越は地名ながら汐が越してくる浅瀬の地形を思わせる。
その浅瀬に鶴が下りたって腰のあたりまでぬらしている情景を、涼しいとみた。
その彼方に広々とした日本海が見えるのである。

 

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「奥の細道」象潟や雨に西施がねぶの花   (秋田県象潟)

2024年08月27日 | 旅と文学(奥の細道)

----ひそみにならう----


      「小説十八史略」  陳舜臣 毎日新聞  昭和52年発行

絶世の美女。その名を西施という。
夫差はどんなに美人でも、道理のわからぬ愚昧な女はきらいであった。
たおやかな賢女。
それが夫差の理想の女性である。
彼は西施に夢中になった。
夫差は出征のときも、陣中に西施を伴っていた。
片時も離さなかったのである。
西施は眉をひそめると、一そう美しくみえた。
眉のあたりに、ひきしまったポイントがつくられ、それが新しい魅力を生む。
呉王の宮殿では、宮女たちが西施を真似て、悲しくもなんともないのに、
眉をひそめるポーズをつくるのが、流行ったという。
「ひそみにならう」という諺がある。
自分にアウカドウカ、まるで考えないで、他人の真似をすること、
つまり猿真似のことをいう。


・・・


中国五千年の歴史でも、「呉」と「越」の故事は今も日本に伝わって残る。
「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」、夫差や伍子胥や范蠡や勾践。
岡山県では児島高徳の、「天勾践を空しゅうすること莫れ時に范蠡無きにしも非ず」も有名。
なかでも絶世の美女と言われた西施の話は小説や絵画で「傾国の美女」ぶりが伝わっている。

 


象潟には、是非とも合歓の花が咲いているときに、訪れたかった。
国道沿いに多くの咲いた合歓が見えたが、蚶満寺に着くと盛りを過ぎていた。
でも、
境内の「西施」と「合歓の花」を同時に見ることはかろうじて実現できた。

 

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旅の場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島・蚶満寺    
旅の日・2022年7月11日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

象潟や雨に西施がねぶの花

六月十六日の昼、芭蕉は象潟のほとり塩越村に到着し、十七日は滞在、 十八日酒田に帰着した。
この句は、象潟の印象を、折から雨中に咲いていた合歓の花に託して詠んだもの。
季語は「ねぶの花」で夏五月。 
象潟の風景を眺めると、雨に煙って朦朧としており、その中から美人西施が目を閉じて悩んでいる面影が浮かんで来るような感じがするが、
それは雨に濡れそぼった合歓の花が、美人西施の憂いに沈んだ様子そっくりの感じだったからで、
雨中の合歓の花は、よく象潟を象徴しているように思われる、の意。

・・・

 

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「日本の古典11松尾芭蕉」 山本健吉 世界文化社 1975年発行 


六月十六日のおひるごろ、芭蕉は雨中を歩いてきて汐越についた。
その日は象潟橋まで行って、雨中の暮景を見た。

翌朝は、まだ小雨が降っていたが、道々入江のけしきをながめながら、干満寺へ行った。
ここの方丈にに通されて、彼は九十九島・八十八潟の景と称されたけしきにながめ入った。

太平洋岸では松島、日本海岸では象潟の景をたずねることが、芭蕉の旅の目的といってよかった。
「松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし」と紀行に書いているが、
どうも象潟はかれに女性の面影を連想させたらしい。
杭州の西湖の景を、蘇東坡が西施にくらべて詩を作ったことがあり、 
芭蕉も、ここではそれにならっているのである。

西湖には私も先年遊び、湖上に舟を浮かべ、また、靄にけぶる蘇堤を歩いた。
水の浅い湖で、なるほど女性的な感じといえばいえる。 
象潟も、文化年間の地震で地底が盛りあがって水が干上がり、
島を残してあとは田圃になってしまったくらいだから、そこにある類似は成立しただろう。

西施は「呉越軍談」の美女である。
いくさに負けた越王が、国中第一の美女として呉王に献じた。
なにか心に病んで、面をひそめたさまが美しかったので、
国中の女たちがあらそってこれにならい「西施の顰」という故事が生まれた。
それを少しばかりひねって、芭蕉は「西施の眠り」とした。
半眼の美女の憂い顔に、うらむような象潟の雨中のけしきをたとえたのである。
雨中に葉を閉じた湖畔の合歓の花が、かれの目にはいったらしい。
「西施の眠り」を合歓の花にかけた。
最初 は「象潟の雨や西施が合歓の花」と作った。

 

・・・

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


象潟や雨に西施がねぶの花

この句に誘われて象潟まで行く人が多くなった。 
象潟は南北三・三キロ、東西二・ニキ口にわたる入江で、芭蕉が旅したころは九十九島、八十八潟があったが、
その後百十五年めの文化元年(一八〇四)の大地震で隆起して、入江は陸地になってしまった。
いまは小島の周辺がタンボとなっている。

芭蕉が象潟へ行ったときは雨が降っていた。
雨に濡れてさく合歓の花は、悲運の美女西施(西湖を美人西施にたとえた)が、物うげに目を閉じている姿を思わせる。
西施が「眠る」と「ねぶ」が掛け言葉になっている。
地の文に「松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」と出てくる。
「象潟の雨」「西施が眠っている姿」「雨に濡れている合歓の花」の三つが一句の中に、し っとりと混じり、
寂しさに悲しみを加えた象潟の情景が示される。

 

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文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、
かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、
二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、
文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。


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「奥の細道」暑き日を海に入れたり最上川   (山形県酒田)

2024年08月26日 | 旅と文学(奥の細道)

観光バスが鶴岡市から酒田市に入る頃、最上川と日本海に夕陽が落ちていった。
バスが最上川右岸のホテルに着き、すぐに
”暑き日を海に入れる”風景を見るために、最上川に架かる出羽大橋に行った。
橋の上から、「暑き日を海に入れる」最上川を眺めていた。

その眺めは絶景だった。
芭蕉が見た「暑き日を海に入れる」最上川と同じと思った。
暗くなって、暑き日が終わるまで最上川を眺めていた。

 

 

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旅の場所・山形県酒田市落野目・出羽大橋         
旅の日・2022年7月10日        
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


暑き日を海にいれたり最上川

芭蕉は鶴岡から川船に乗って、酒田へ向かった。
酒田に出て、生まれてはじめての日本海を見たのであった。 
山野彷徨の果てに見る日本海は芭蕉にどのような感興を与えたのだろうか。
酒田は戦国時代から発展した港町で、廻船問屋が百軒以上あり、豪商がひしめいていた。

「五月雨をあつめて早し最上川」が最上川上流で詠まれたのに対し、
この句は河口の吟である。
酒田港は河口から見て海の方向へ日が沈む地勢になっている。
夕日が西の沖に落ちていく様子が、「暑き日を海に入れていくようだ」という感慨である。
酒田港は、河口の西方へ日が落ちる地勢になっている。
酒田は東北の海辺の町であるにもかかわらず、夏はやたらと暑い。
夕暮れどきは、太陽が海に落ち、わずか八分の一ぐらいが水面に残って、余韻を残す。

上流で最上川の「涼しい句」を詠んだので、河口「暑き日」を観察して、最上川の二面性を示した。
上流では川面すれすれの視線であったのに、ここでは風景を俯瞰し、芭蕉の目玉は上空に浮いている。
そのときどきによって目線が自在に変化する。

 

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出羽大橋は最上川河口に一番近い橋。長さは861m。
正面に残雪の鳥海山、2236m。山形県と秋田県に分ける。
右が泊ったホテルで、ツアー客は9Fと10F。部屋から見る夕日もきれいだったようだ。

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「奥の細道」あつみ山や吹浦かけて夕すずみ  (山形県酒田)

2024年08月25日 | 旅と文学(奥の細道)

北前船や最上川の舟運で繁栄する酒田。
芭蕉と曾良は医師・不玉の家を宿として、12日間のくつろいだ日々を過ごした。

 

 

「芭蕉物語(中)」 麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

朝食をすませて象潟を出発した。
道中あゆ風がそよそよと吹いて来て、山も海も爽快であった。
この日は一気に十一里の道を歩いて、夕方酒田に到着した。
十九日も快晴であった。
明日は寺島彦助が江戸に旅立つというので、芭蕉は杉風や鳴海の寂照や越人宛の手紙をしたため、
曽良は杉風や深川長政宛の手紙を書いて、彦助に託した。
伊東玄順は象潟から帰って来た芭蕉たちを誘って、最上川で舟遊びを催した。
舟は河口から袖の浦に出て、眺望をほしいままにした。

あつみ山や吹浦かけて夕すぐみ   芭蕉

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旅の場所・山形県酒田市落野目         
旅の日・2022年7月11日        
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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温海山(温海岳)は酒田の南約十里、それほど高い山ではないが、海岸に近いので遠方からもよく見える。
吹浦は酒田の北方六里、
象潟への往復に通ったところで、往きには強風に吹きつけられ豪雨に襲われて印象に残ったところである。
「あつみ山や吹浦かけて」は温海山から吹浦へかけて、ずうっと見渡しての意味である。 
「や」は詠嘆の切字ではなく、わざと字余りにして距離の感じを出したのである。
あつみ山には「熱い」「暑い」の意があり、
「吹浦」には熱いものを吹く意をきかせ、そして「涼しくする」という縁語仕立の句であるが、
その技巧がほとんど目立たないくらいに、景色の中にとけこんでいる。 
温海山から吹浦にかけて眺望をほしいままにして、自分は今夕涼みをしている。
北国の海のひろびろとした景色をひとりじめにして涼味を満喫する快適な気分を端的に打ち出したのである。 
この晩、不玉亭で芭蕉のこの句を立句にして歌仙が催された。 

 

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ


最上川河口の袖の浦に漕ぎ出しての夕涼み。
吹浦という地名にかけての略。

酒田には酒田三十六人衆とよばれる自治組織があり「西の堺、東の酒田」とよばれるほ 栄えて、俳諧が盛んであった。
酒田には実質九日間滞在して、廻船問屋らに招かれて句会をした。
この句を詠んだのは寺島彦助の家で、酒田港浦役人をしていた人だ。
酒田市役所の近くに寺島邸跡の標識が立っている。
酒田には伊東玄順という医者がいて、俳号を不玉という。 不玉のもとへは大淀三千風が訪れていた。
不玉は清風とも親しく、玄順は幕府役人である。 
仙台を経てから、芭蕉が歩くさきざきは、ほとんどすべてを三千風が訪れている。

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発句会を開いた廻船問屋・鐙屋(あぶみや)は、西鶴 の「 日本永代蔵 」に登場する豪商だった。
2022.7.11は改修工事中。

 

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「海の交流」    中国地方総合文化センター  2012年発行

瑞賢は、
最上川の舟運を利用して城米を酒田に運び、そこから廻船に積み換えて海路をとった。
これが西廻り航路で、途中の寄港地に選ばれたのは、
佐渡の小木、能登の福浦、但馬の柴山、石見の温泉津、長門の下関、摂津の大坂、
紀伊の大島、伊勢の方座、志摩の安乗、伊豆の下田である。
そこに番所を設けて手代を配置し、航路安全を図った。
大型廻船は塩飽船が丈夫で最も多く採用された。
船も塩飽水夫も高く評価された。

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「奥の細道」湯殿山銭ふむ道の涙かな  (山形県湯殿山)

2024年08月24日 | 旅と文学(奥の細道)

湯殿山への参拝は、お祓いを受け、裸足になって、銭を踏みながらお詣りする。
ご神体からは温泉が湧き、世にも不思議な神域となっている。

 

 


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旅の場所・山県県鶴岡市田麦俣字六十里山「湯殿山本宮」         
旅の日・2022年7月12日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


湯殿山銭ふむ道の泪かな 曾良

流出する湯の近くにはいまなお一円玉・百円玉の賽銭が金網のうえにばらまかれていた。 
賽銭を踏みながらの自己再生に涙するというのだから、曾良の作とした。
御神体岩に湧く湯は熱く、足裏に触れると、ぬらぬらとして、なまめかしさがあった。 
湯をなめてみると塩分が強く舌がしびれていった。

 

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 「日本の古典11 奥の細道」 山本健吉 世界文化社 1975年発行

湯殿山銭ふむ道の涙かな    曽良(出羽三山)

芭蕉の湯殿詣では六月七日だが、『紀行』には「惣而此山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。
よりて筆をとどめて記さず」とある。
湯殿山の微細は今日でも秘事が多く、神秘性を漂わせている。 
その神秘性に触れて芭蕉も袂をぬらした、というのだが「ぬらす」とは湯殿の縁語である。
三山順礼の句の中では一番感銘の乏しい句が「語られぬ」である。

『菅菰抄』に「この山中の法にて、地へ落ちたるものを取るあたはず。
故に道者の投擲せし金銭は小石のごとく、 銭は土砂にひとし。 人その上を往来す」と注してある。 
地にちらばった銭など歯牙にもかけず、その上を踏み歩くという超俗的な気持に誰しもなっているというので 
「世を忘れけり」といった。


・・・

 

 

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「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行

出羽の”山の神”でもっともはやくさかえたのは月山である。
四季、白雪をいただいて静かに横たわる月山の秀麗な山容に、古代人は女神の姿を見いだしたのだろう。

湯殿山神も”山の神”で、輝石安山岩塊を含む泥流の一堆頂から温泉が湧出し、
堆面をつたわって流れており、これがご神体とされる。
湯殿山は農業と関係が深く、土民の信仰をあつめていた。

羽黒山は、山自体を神とした月山や湯殿山よりも、社殿祭祀の羽黒神社が栄えていった。

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「奥の細道」語られぬ湯殿にぬらす袂かな   (山形県湯殿山)  

2024年08月23日 | 旅と文学(奥の細道)

湯殿山へのお詣りは神秘さが満点だった。
ミステリーツアーのようだった。
しかし、
そのことは語りたくとも、書きたくても、撮りたくても不可能。
「語るなかれ、聞くなかれ」が湯殿山神社。

御神体は霊験極まり、
SNS全盛の今どき、秘めるのはもったいないような気さえする。
それほど魅力的な、不思議さがある湯殿山だった。
いい体験だった。

 

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旅の場所・山県県鶴岡市田麦俣字六十里山「湯殿山本宮」         
旅の日・2022年7月12日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」


出羽三山の奥の院 神秘が息づく行の山
湯殿山神社本宮


「語るなかれ」「聞くなかれ」修験道の霊地・湯殿山は、標高1,504m、月山南西山腹に連なる なだらかな稜線の山。
出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮は、写真撮影禁止、参拝は土足厳禁という厳しい戒めで知られる神社。
湯殿山神社には社殿がなく、ご神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌です。

江戸時代には、西の伊勢参りに対して、東の奥参りと称して、
両方をお参りすることが「人生儀礼」の一つとされ全国からの参拝者で賑わいました。

※開山期間は、積雪のため6月1日より11月3日頃までとなります。


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「奥の細道」雲の峰いくつくずれて月の山  (山形県月山)

2024年08月22日 | 旅と文学(奥の細道)

芭蕉がすごいのは文人として以外に、気力と体力が並外れている。
江戸からの旅人が羽黒山にお参りするとこまでは、まあ理解できる。
しかし、更に足を延ばして標高1.984mの月山、1.500mの湯殿山へ登る。
これは体力・気力とも揃わなければできることでない。

現代の我々の”登山”は、
登山口駐車場まで車、そこから八合目付近までロープウェイ。
山頂まで少し歩けば登頂、というのが、ほぼお決まりのパターン。
登山口に一番近いJR駅に降りて、そこから歩いて登る、という人さえ皆無に近い。

 

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旅の場所・山形県鶴岡市羽黒町・月山弥陀ヶ原湿原  
旅の日・ 2022年7月12日               
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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 「日本の古典11 奥の細道」 山本健吉 世界文化社 1975年発行


芭蕉が月山に登ったのは、六月六日であった。
出羽三山の主峰で海抜千九百八十メートル、芭蕉の生涯のうちに登ったいちばん高い山である。
山上の角兵衛小屋に泊まり、翌日南谷の坊に帰った。


「奥の細道」に「息絶え、身こごえて頂上にいたれば、日没して月現る」とあるので、
「雲の峰」の旬は、頂上でのけしきを詠んだものと思われている。
だが、芭蕉は、昼間に見た雲の峰のイメージを呼び起こしているのだ。
雲の峰がいくつ立ち、いくつくずれてこの月の山となったのであるか、といっているのである。
「月の山」を目の前にしているけしきと取らなければ、 この句は死んでしまう。

出羽第一の名山を詠みこむことが、芭蕉の挨拶なのである。
この霊地全体に対する挨拶だと見るべきだ。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


雲の峰幾つ崩れて月の山


芭蕉は羽黒山麓から歩きはじめて八里(約三二キロメートル)を登って月山の頂上に着き、
泊り小屋で一泊した。
山々は濃紺に沈み、眼下の雲は白くにじんでいる。
ちぎってばらまいたような雲であった。
雲の下には庄内の沃野が広がっていく。
その沃野の一点から吹きだす雲の峰があり、やがて雲は流れ、霞となって消えていく。
とみるや天上から太陽光線が差しこんで幾条もの光の束となった。
芭蕉が言う「雲の峰」が眼前で崩れては湧き、湧いてまた崩れていくのであった。

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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行


雲の峯いくつ崩れて月の山


元禄二年六月三日(陽暦七月十九日)から十日に至る三山巡礼の記念として書き残したもの。
「月の山」は、いうまでもなく、月山の名をよみこみ、たたえたもので、 今でも月山参詣の道者は、
「月のみやま」と唱えるよし。 
「月の山」は、同時に、「霊の峯」に対して「いくつ崩れて」という時間の経過の中で見た場合、
月に照らされた山とも読める。
「月の山」は、月に照らし出された山、月光のふりそそぐ山と見るよりも、
それ自体が月光を発し皎々と輝く山のイメージを思い浮かべたほうが、いっそう信仰の山にふさわしいかも知れない。


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