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開花を待つ花々!

2016年04月13日 | O60→70(オーバー70歳)
▼昨日、お昼休みは旧芝離宮恩賜庭園、里桜と紫らん、ハナカイドウが見頃でした。
▼ふと土手に目をやれば、ボタンの蕾が膨らみ、あやめも開花間近、フジも時を待っていたかのように房を伸ばしています。
▼そして、モミジの新緑も目に鮮やかでした。
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そびえ立つNEC本社ビル〈英訳付〉

2016年04月13日 | 三田だより
先月末、田町からNEC本社ビルを横目に日比谷通りに抜け、左に曲がって真っ直ぐ増上寺をめざしました。NEC本社ビルの横にはコブシが咲いていました。以前は植栽とビルの間に喫煙所があったのに、2年前ぐらいに撤去されました。

At the end of last month, I walked from Tamachi to Hibiya-dori with the NEC headquarters building on my side, turned left, and headed straight for Zojoji Temple.

Next to the NEC headquarters building, there was a kobushi (a bush clover) in bloom. There used to be a smoking area between the plantings and the building, but it was removed about two years ago.



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抜き書き帳『金子光晴』その6

2016年04月13日 | 小説・映画等に出てくる「たばこ」
【171ページ】
暁星に入学してからの、じぶんが貴族や富豪の御曹子でなく、一介の月給取りの息子であるという劣等感、そうした二の次のわが運命に対する絶望感とで、どうにもならない自分を、ともかく支えてくれたものは、儒教精神の貧しくてもその志を改めない顔回への憧憬であった。

【191ページ】
僕は美術学校はほとんどゆかなかったので、3ヶ月で退学になった。すぐまた慶応の英文科に入学した。野口米次郎、広瀬哲士、向軍治などが教えていた。

【194ページ】
ついに、僕は病床に就いた。二十歳の頃のことだった。
人はみな、その頃の僕を狂人扱いした。僕じしんが、今日ふりかえって考えてみても、あんな若者が今日までよく生きのびてこられたものだとふしぎにおもう。あんな青年は、その後、僕の周囲には一人もいなかった。明日のプランというものがまるでなかった。どういうことをしたいという先の見通しもない。計画的なことは、無意味であり、すべて下らない辛抱であった。

【217~218ページ】
群馬県の鹿沼から入った山地で、仕事をはじめることにした。金の取引がすむと売り方の百姓たちが、田舎の遊郭のようなところへ僕を招いて、飲めや歌えの大騒ぎをした。----
1918年、僕が23歳の年もくれると、鉱山の仕事もおよそ先が知れてきた。この仕事で金を失ったばかりでなく、その他にえたものといったら、百姓たちの奸智(かんち)と陋劣(ろうれつ)さを知ったこと位だった。

[Ken] 171ページの「顔回」は、孔子の弟子の一人で、随一の秀才と将来を嘱望されていましたが、若くして亡くなり孔子を嘆かせました。顏回は名誉栄達を求めないで、暮らしぶりは極めて質素に孔子の教えをひたすら理解・実践したことから、悩み多き金子光晴さんが若い時代の憧れになったのでしょう。それから、「慶応の英文科に入学」したとのことですが、これまたすぐにやめていますので、慶応大学での永井荷風さんのような現在に残る影さえもありません。
また、194ページの「よく生きのびてこられたものだ」という気持ちについては、私も若い頃を振り返ってみると深く共感させられました。
217ページからの「百姓たちの奸智と陋劣さ」については、自分がその中で生まれ育ちましたので、「そうしなければ生き残れなかった」という同情を含めて納得させられました。(つづく)
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