今週の週刊ポストでの池田晶子さんの書評は、茂木健一郎さんという方の著書『<脳>整理法』(新書版)でした。例によって本を紹介しつつ、ほとんどは池田晶子さんの「考え」が中心の文章でした。
池田晶子さんの書評の主題は「脳の存在を客観的に捉えようとする著者の主観を問う」というものでしたが、この本の著者が、人々は脳をうまく使っていない、ということをいろいろ書いていることに対し、そもそも脳をどう使うか、ではなく、単に自分がどう意識するか、と言えばいいだけで、意識を脳の電気信号作用と捉える科学の見方は、片面的な認識方法に過ぎないと言っています(立ち読みだったので、ややうろ覚えです)。
とくに観念論的哲学の考え方なのだと思いますが、「世界がまず客観的に存在するのではなく、自分が存在するから世界が認識でき、世界が存在するのである。自分が存在しなければ、世界は存在しない。」と明確に池田晶子さんは言い切っています。この考え方を理解することが、池田晶子さんの数々の言葉を理解する肝なのでしょう。「死は無である」という言い方も同じ考えから来ているはずです。
唯物論的考え方、つまり自分がいなくても世界が客観的に存在するとか、あるいは科学的考え方、意識は脳の電気信号作用に還元される、等の考えの呪縛を解くのは凡人にとっては結構難しいのですが、池田晶子さんの絶対的言明も正しいと理解できますので、繰り返し考えていく他ありません。
池田晶子さんの書評の主題は「脳の存在を客観的に捉えようとする著者の主観を問う」というものでしたが、この本の著者が、人々は脳をうまく使っていない、ということをいろいろ書いていることに対し、そもそも脳をどう使うか、ではなく、単に自分がどう意識するか、と言えばいいだけで、意識を脳の電気信号作用と捉える科学の見方は、片面的な認識方法に過ぎないと言っています(立ち読みだったので、ややうろ覚えです)。
とくに観念論的哲学の考え方なのだと思いますが、「世界がまず客観的に存在するのではなく、自分が存在するから世界が認識でき、世界が存在するのである。自分が存在しなければ、世界は存在しない。」と明確に池田晶子さんは言い切っています。この考え方を理解することが、池田晶子さんの数々の言葉を理解する肝なのでしょう。「死は無である」という言い方も同じ考えから来ているはずです。
唯物論的考え方、つまり自分がいなくても世界が客観的に存在するとか、あるいは科学的考え方、意識は脳の電気信号作用に還元される、等の考えの呪縛を解くのは凡人にとっては結構難しいのですが、池田晶子さんの絶対的言明も正しいと理解できますので、繰り返し考えていく他ありません。