池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「上手に死なせて」という題でした。ポイントとなる文だけ抜粋します。
「死それ自体は人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができるのである。そうでなければ、どうして人に死が訪れることがあり得よう。」
本文の最初の方では、末期患者の安楽死問題で医者が殺人犯扱いされることに同情しています。そのうえで、「死に方」と「死」とは違うのに、人は勘違いしやすいと。
さて、引用した文は何を言っているのでしょうか。死に方(自殺)は選べても、死そのものは選べないというのは何となくわかります。自殺の方法は正しくても何らかの間違いで生き残ったりすることがあるように、死そのものは確かに選べません。
では「人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができる」というのはどういうことでしょうか。もし死が人間の意志を越えてなく、死を意志できるのであれば、どうなるのでしょう。意志を越えてない以上、死は意志できるし、逆に死を意志しない、つまり死なないことも意志できることとなってしまう。ということは、「意志を越えている」ことによって、意志とは無関係に自然としての死が万人に訪れる、と言うことができるわけですね。なるほど、当たり前というわけです。
「死それ自体は人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができるのである。そうでなければ、どうして人に死が訪れることがあり得よう。」
本文の最初の方では、末期患者の安楽死問題で医者が殺人犯扱いされることに同情しています。そのうえで、「死に方」と「死」とは違うのに、人は勘違いしやすいと。
さて、引用した文は何を言っているのでしょうか。死に方(自殺)は選べても、死そのものは選べないというのは何となくわかります。自殺の方法は正しくても何らかの間違いで生き残ったりすることがあるように、死そのものは確かに選べません。
では「人間の意志を越えているからこそ、人は死ぬことができる」というのはどういうことでしょうか。もし死が人間の意志を越えてなく、死を意志できるのであれば、どうなるのでしょう。意志を越えてない以上、死は意志できるし、逆に死を意志しない、つまり死なないことも意志できることとなってしまう。ということは、「意志を越えている」ことによって、意志とは無関係に自然としての死が万人に訪れる、と言うことができるわけですね。なるほど、当たり前というわけです。