哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

養老孟司さんの『無思想の発見』

2006-04-12 00:59:15 | 知識人
 『バカの壁』も随分人を食った文章でしたが、この本も著者自身も言う通りヘソ曲がり度大の文章です。でも他の新書よりは真面目に書いてるようにも思えます。

 品格のない『国家の品格』があれだけ売れているのですから、この本ももっと売れていいと思いますが、著者本人の類書がやたらある中では、真面目な内容のこの本はとっつき難いのかも知れません。


 池田晶子さんはかねてから養老孟司さんのことを肯定的に紹介していますが、逆に養老さんが池田さんを紹介した文は見たことがありません(全ての養老さんの本を読んだわけではありませんが)。

 ただこの本を読んだ感想としては、池田さんと養老さんとは微妙に考え方は異なるのではないかと思いました。

 例えば、足を切り落としても(精神的な)「自己」が減るわけではないという話は、池田さんの文にもあります。この本ではジョン・ロックが『人間知性論』で同様のことを書いていると紹介されています。しかし養老さん曰く「じゃあ、首ならどうなんですかね」と。養老さんは、精神と身体とを分ける考え方は無茶な話だと言います。さらに「同じ自己」と言っても、人体を構成する物質は一年で9割以上入れ替わることから、むしろ「別の人」とも言いうるとのこと。そうすると「同じ」というのは「意識」のことになるが、「意識」とは脳の機能といえ、脳の機能としては意識は無意識の後追いであったり、五感による「異なる」感覚世界を「同じ」概念で捉える作用を行う。つまりは意識における個体差=個性は大きく違うとは言い得ず、「同じ自己」どころか他者との決定的区別にも必ずしもならないことになります。

 このように、養老さんにおいては脳も含めた身体に一体化した精神を出発点に、思想というものを捉えていくようです。池田さんにおいては、身体性よりも精神性の比重がかなり多いように思いますので、微妙にスタンスが違うような印象です。


 そして本題の「無思想」ですが、この辺から日本人論になります。キーワードとしては「思想は現実に介入しない」というもので、例えばキリスト教を基盤にした思想=原理原則は現実に介入して人の生存に影響するが、無思想の世界である日本ではそのような現実に介入する思想はなかったと言います。
 養老さんは「無思想という思想」が日本にはある、という言い方をされますが、詳細は是非この本を読んでください。