哲学とワインと・・ 池田晶子ファンのブログ

文筆家池田晶子さんの連載もの等を中心に、興味あるテーマについて、まじめに書いていきたいと思います。

奇跡のほんとう(週刊新潮今週号の「人間自身」)

2006-09-10 03:53:40 | 哲学
 池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「奇跡のほんとう」という題でした。前回の生死の話の続きのようです。よどみない論理の流れは、池田さんらしい文章ですね。



「生命は素晴らしい、生きていることは奇跡的だと礼賛するなら、死ぬことだって、同じく奇跡的なことのはずである。なぜ死ぬことを奇跡と言わないのか。「生命の神秘」と口では言うが、本当の神秘を感じているのではないからである。

 精子と卵子が結合する確率が奇跡的とはいえ、確率であるということは可能であるということだ。可能なことは可能なのだから、奇跡ではない。
 本当の奇跡は、自分というものは、確率によって存在したのではないというところにある。なるほどある精子と卵子の結合により、ある生命体は誕生した。しかし、なぜその生命体がこの自分なのか。この自分は、どのようにして存在したのか。存在するということ自体は、人間の理解を超えている。

 なぜ存在するのかわからないものが存在するからこそ奇跡であり、存在する生命は神秘なのだ。」




 池田さんのよく使う言い方では、「生命の神秘」は「存在の不思議」と言い換えられます。今回はそれを「奇跡のほんとう」と言い換えたと言っていいでしょう。そしてそれは、自分や生命の存在の不思議から、宇宙の存在の不思議に直結します。
 宇宙がビッグバンから始まったと科学で説明できても、なぜそのように宇宙が始まったのかは、説明できません。それが神秘であり、あえて説明しようとすれば神が創った、となってしまうわけですね。


 今回の本文にも、「なぜ存在するのかわからない宇宙が、なぜか自分として存在し、それが生きたり死んだりしているのを見ているというのは、いったいどういうことなのか。生きたり死んだりしているとは、(何が)何をしていることなのか。」と書いておられます。
 「(何が)何をしているのか」とは、行為の主体さえ、人間の理解を超えているというわけですね。これもあえて説明するとすれば神の御心のままに、となってしまいそうです。




 今回の本文の最後の方に、「人生は自分のものではない。生きるも死ぬも、これは全て他力によるものである。」とあります。文の流れからは、論理的に何らおかしくありませんが、現代の人生観(「人生という一定期間を限定し、自分の権利だと他者に主張する」)に対する痛烈なカウンターパンチですので、世間的には受け入れられにくそうですね。

 しかし、素直に考えればそれは「まっとうなほんとう」です。生きるも死ぬも他力だからといって、今の自分の主体的な生き方を放棄しなさいと言っているわけでも何でもないのですから。


1 コメント

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Unknown (kounit)
2006-09-14 12:33:13
とても興味を持っては意見しています。

これからも楽しくにしております。
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