平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



多井畑厄除八幡宮から西へ約200mのところに
平家落武者と松風村雨の墓があります。
住宅地の中の少し入り組んだ場所にありますが、
所々に案内板があるので迷うことはありません。

須磨へ蟄居することになった在原行平(在原業平の異母兄)は、
多井畑(たいのはた)の村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」に出逢い、
「松風・村雨」と名づけて愛したといいます。多井畑には二人が水鏡として
使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。



 









石碑には👉松風村雨之墓と刻まれています。

一ノ谷合戦ではおびただしい数の武士たちが命をおとしましたが、
その名もない人々の墓を地域の人々が大切に守ってきました。
お参りにこられた地元の方にお聞きした話では、
もと13基あった墓碑が50年ほど前に1基なくなったそうです。

落武者の墓
源平一の谷の合戦(西暦一一八四年)に敗れ、この地で自害した
平家の落武者十三名の墓と今に言い伝えられています。(碑文より)





この二基の五輪塔は松風村雨の墓と伝えられ、
傍には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建っています。

平安時代の歌人在原行平は献歌した1首が光孝天皇のいかりにふれて
須磨に流されたといわれています。3年経って行平は都に帰ることになり、
2人の娘はやがて須磨から3㎞ほど北にある多井畑に戻って亡くなりました。

村風・村雨の墓
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
   在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ
須磨の地に配流され、寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた
多井畑の村長の娘”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、
松風、村雨の名を与え仕えさせた。 三年の歳月がたち許されて
京都に帰るとき行平は小倉百人一首で著名な
立ち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今かえり来む 中納言行平
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。
   二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、
行平の無事を祈っていた。後多井畑へ帰りわびしく世を去った。また、
この近くには二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。
   現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。令和元年六月吉日 正木勲(碑文より)

地元の方のお話によると、当時の多井畑村長のご子孫正木氏は、説明板が
風化によってだいぶ朽ちていたので、この石碑をお建てになったそうです。

十数年前に須磨を散策した時に訪れた松風村雨堂です。




松風村雨堂
松風村雨の二人の姉妹は、謡曲「松風」を初め多くの文学にとりいれられ、
次のように伝説が広く世に知られています。
  在原行平は仁和2年(886年)光孝天皇の怒りにふれ須磨の地に配流され、
寂しく暮していた。その時、汐汲みに通っていた多井畑の村長の娘
”もしほ””こふじ”の姉妹をいとおしく思い、松風、村雨の名を与え仕えさせた。 
三年の歳月がたち許されて京都に帰るとき行平は、小倉百人一首で著名な

立ち別れいなばの山の峰に生ふる    まつとし聞かば今かえり来む
 の歌を残し烏帽子、狩衣をかたわらの松の木に掛け姉妹たちへの形見とした。 
二人の姉妹はたいそう悲しんで観世音菩薩を信仰し、行平の無事を祈っていた。
後多井畑へ帰りわびしく世を去った。  また、この近くには
二人の姉妹が姿を映し髪をすいたといい伝える「鏡の井」があります。

  現在でもこの伝説にちなんで行平町、松風町、村雨町、
衣掛町などの町名が残っています。昭和46年3月
 神戸市教育委員会 須磨区役所 松風村雨堂保存会(説明板より)

謡曲「松風」と松風・村雨堂に磯馴松(いそなれまつ)
 謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、
姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、女心の一途な恋慕や
懊悩の姿を幽玄の情趣で表現された叙情豊かな名曲である。

 須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、
海士女 松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。乞うた宿の二人の乙女は
「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風村雨の幽霊である」と告げ、
形見の烏帽子、狩衣を着て物狂おしく舞い、妄執解脱の回向を請うと、
二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。
旧跡を訪うた旅僧の夢であった。 行平の謫居跡に彼を慕う姉妹が
結んだ庵の跡が「松風・村雨堂」と伝えられる。
別れに臨み行平が手ずから植えた「磯馴松」は堂の近くにあり、
古株のみが残って昔を語っている。謡曲史跡保存会(駒札より)

行平が狩衣をかけた磯馴松の古株が衣掛松と名づけられて残っています。
 右手の石碑には、「松風村雨堂」と彫られています。

三代目衣掛の松(きぬがけのまつ)と刻まれています。
 
2人が庵を結んで観世音菩薩を祀った観音堂 

磯馴松の古株の傍に三代目の衣掛松が青々とした葉を茂らせています。
在原行平は帰京の際に、
♪立ちわかれいなばの山の峯におふる まつとし聞かば今かへりこむ
(あなたとお別れして、私は因幡の国へ行きますが、その国の
稲羽山(いなばやま)の峰に生えている松のように、あなたが私の帰りを
待っていると聞いたなら、すぐにでも帰って来ましょう。)の和歌を添え、
形見として烏帽子と狩衣を松の木に掛けて旅立ったという。 

この和歌は、行平が38歳の時、因幡の国(鳥取県)の国司に任命され、
赴任地へ向かう際に別れを惜しんで恋人に贈った歌だとされています。
その切なさは松風村雨との別れにも通じるものがあります。 

なお、一絃琴(いちげんきん)と呼ばれる須磨琴は、
行平が浜辺に打寄せられた一枚の舟板に一本の冠の緒を
張っただけの簡単な琴をつくり、葦の茎を指にはめて
その琴を弾じながら気晴らしをしたのが始まりとされていますが、
江戸時代の前期に中国から輸入されたものともいわれています。

あちこちに散らばっていたものを集めたものでしょうか。
祠には、たくさんの供養塔が祀られています。
『アクセス』
「平家落人の墓」「松風村雨の墓」神戸市須磨区多井畑東所3
JR山陽電車「須磨駅」または、神戸市営地下鉄「妙法寺駅」
神戸市営地下鉄「名谷(みょうだに)駅」から
市バス71(一部)・72・74・88系統「多井畑厄神」下車、西へ徒歩約4分。
「鏡の井」神戸市須磨区多井畑字筋替道

「松風村雨堂」神戸市須磨区離宮前町1丁目2
山陽電鉄「須磨寺駅」から東へ徒歩約10分
 JR・山陽電鉄「須磨駅」下車
 「須磨駅前」バス停から市バス75系統「村雨堂」下車すぐ
『参考資料』
「兵庫県の歴史散歩(上)」山川出版社、1990年
NHK神戸放送局編「新兵庫史を歩く」神戸新聞総合出版センター、2008年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


« 多井畑厄除八幡宮 丹生神社・鷲... »
 
コメント
 
 
 
名もない落ち武者の墓を地域の人々が大切に守ってこられたのですね。 (yukariko)
2019-10-07 17:51:44
地元では人々に対する尊崇の念がずっと絶えずに続いているのですね。
また、松風村雨堂やその碑などを守ってこられた方々にとっては、池や松、観音堂は、はるか昔から謡曲などで伝わる物語によってより一層大事な遺物なのでしょう。
 
 
 
平氏軍はかつてないほどの戦死者を出しました (sakura)
2019-10-08 16:30:51
前途を悲観して自害した者もいたのでしょう。
その墓碑にこの地の人々が交代で水や花をお供えされているようです。
また松風村雨の墓は、この土地の所有者でもある
かつての村長のご子孫が守っておられるそうです。

謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された時、
松風村雨を愛した話や百人一首の行平の和歌などを題材としています。

この作品は、「汐汲」という能を観阿弥が「松風村雨」という曲に改作し、
世阿弥がさらに手を入れた曲です。

「源氏物語」に描かれた光源氏の須磨退去の物語は、
行平流謫(るたく)を下敷きに書かれたとされています。



 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。