平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




丹生(たんじょう)山の頂上にある丹生神社(祭神丹生都比売命=にふつひめのみこと)は、
創建当時丹生寺という寺院でしたが、後に明要(みょうよう)寺と改めました。
欽明天皇の三年(542)に百済の聖明(せいめい)王の王子
童男行者(どうなんぎょうじゃ)が開いたという古いお寺です。

福原遷都(1180)の時平清盛は、福原京の鎮護として丹生山を
比叡山にみたてて丹生寺を再興するとともに日吉(ひえ)山王権現を
勧請し月参りしたといわれ、土地の人は今も山王さんと呼んでいます。
清盛の信仰と庇護を受け大いに栄え、末寺を加えると
2千もの僧兵を擁したという大寺院でした。

清盛は福原から丹生山(標高514m)までの参詣道を拓き、
山頂までの参道に1町ごとに町石を建てたと伝えられています。
現在、丹生山参道には山頂までの町数を刻んだ
南北朝時代の永徳3年(1383)の銘がある町石12基が残っています。

戦国時代、三木合戦で別所長治に味方し三木城に運ばれる兵糧の
中継地点となったため羽柴秀吉の激しい攻撃にさらされ焼失しました。
塔頭の舟井坊だけは、秀吉軍側についたためのち許され復興しましたが、
往年の勢いを取り戻すことはできませんでした。
明治2年廃仏毀釈により明要寺が廃寺となったため、
鎮守社の山王社が独立して丹生神社と改称されました。



バス停「丹生神社前」近くに丹生神社の一の鳥居が建っています。
丹生山の山頂へは、この鳥居から北へ約5キロメートルあります。



鳥居の傍にたつ石碑。

麓橋を渡ります。

丹生会館

角を右に曲がったところに丹生神社宝物殿があります白壁土蔵造りの美しい建物です。

丹生寺(明要寺)の遺品を納めた丹生神社宝物殿。
室町時代後期に描かれた『明要寺参詣曼荼羅図』や
『当山景画大幅』などの宝物が所蔵されています。

地区の人々によって管理され、毎年、子供の日に開けられます。 

丹生山山頂までは、まだかなりの距離があります。

鷲尾山麓には、一ノ谷合戦に義経一行を先導した鷲尾三郎義久(経春とも)の
屋敷があったと伝えています。この合戦で義経は勝利し、
鷲尾家は戦功によって領地を与えられ栄えましたが、
秀吉の三木城攻めの時に敵対したため所領を没収されました。

太神宮の石灯篭を目印にして農道を進みます。

灯篭と鷲尾山の間の現在田んぼになっているところが邸跡です。
鷲尾山には鷲尾家の墓があります。

屋敷跡から鷲尾氏の墓所へと藍那古道を進みます。  
藍那古道は鷲尾三郎屋敷跡から藍那にかけての山道で、一ノ谷合戦の時に
義経が行軍した道といわれています。(神戸市北区山田町東下~藍那)




「鷲尾家墓所」と標された碑。

お墓に鷲尾家家紋「日の丸扇」が入っています。

丹生神社鳥居の近くには、鷲尾氏開基の曹洞宗福田寺(ふくでんじ)があります。



福田寺は室町時代まで鷲尾家の私寺として運営されてきましたが、鷲尾家衰退後、
寺の維持のために鷲尾家だけでなく近隣の檀家の寺となりました。
本堂には鷲尾氏の位牌の間があり、鷲尾氏代々の位牌が祀られています。

鷲尾氏は明治20年頃までは旧家としての格式を誇り、
昭和初期までこの地に暮らしていたという。
今は誰も住んでいませんが、お盆には岐阜の鷲尾家本家や
神戸市白川・多井畑の鷲尾家を招いているそうです。

鷲尾義久の位牌「久昌院殿義道宗本大居士」

寺の屋根には、鷲尾家の家紋「日の丸扇」が入っています。

『摂津名所図会』によると、義経から日の丸の軍扇が
与えられたことからこれを家紋にしたとしています。
鷲尾三郎義久(義経進軍三草山から一ノ谷へ)  
『アクセス』
「丹生神社一の鳥居」神戸電鉄箕谷(みのたに)駅前から
神戸市バス111系統「丹生神社前」下車すぐ
「福田寺」神戸市北区山田町東下 後ケ市12
「鷲尾氏墓所」神戸市北区山田町東東下 

『参考資料』
野村貴郎「北神戸歴史の道を歩く」神戸新聞総合出版センター、2002年
「兵庫県の地名」平凡社、1999年 「兵庫県の歴史散歩」山川出版社、1990年
神戸新聞社編「源平50選神戸」神戸新聞総合出版センター、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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