コメント
 
 
 
近畿から関東ぐらいが歴史の範囲かと思っていましたが (yukariko)
2016-10-14 21:38:30
奥州平泉は特別ですが他はあんまり出てこないですね。
だから九州の事情など全く知りません。
大宰府もですが、宇佐神宮も奈良時代にポンと名前が出るだけで後は全く忘れ去られたままだったのがここで大宰府と一緒に平家方として出てくるので、この時代、日本全国が源氏と平家に分かれて争っていたのがよく分かりますね。

緒方惟栄は義経に与していて九州に迎えようとしていたとか…源氏も中では色々だったのかと思いました。
 
 
 
大神一族 (sakura)
2016-10-16 08:46:00
Yukarikoさまは旅行がお好きなので大分県の湯布院や
別府には行かれたと思いますが、臼杵はどうでしょうか?

臼杵市には平安時代末期に造られた60数体の国宝臼杵磨崖仏があります。
伝説では、この磨崖仏は真名野長者が中国天台山から
やってきた蓮城法師に造らせたといわれています。
しかしこれだけの大規模な優れた磨崖仏群を造ったのは、
大きな経済力と政治力を有した人物であったとされています。
平安時代末期にこの地方の権力を握っていたのは、緒方惟栄の兄、臼杵惟隆です。
惟隆は弟緒方惟栄・佐賀惟憲とともに源平の争乱では、
頼朝方について活躍し源氏を勝利に導いた人物です。
この惟隆と当時の豊後国守である藤原頼輔が臼杵磨崖仏造立の功労者と見られています。

義経は大物浦で遭難しなかったら平泉ではなく、
大分県に逃れていったことになりますね。

 
 
 
宇佐神宮 (揚羽蝶)
2016-10-16 15:09:58
 裂田神社の、絵馬は歴史を感じさせ、立派だと思います。その中の緒方惟栄(恐ろしき者の末裔)に原田種直は、敗れたのですね。
また、平家としては八幡総本宮の宇佐神宮の御ちからを、十分得られなかったのは、残念です。
 
 
 
大蛇の子孫 (sakura)
2016-10-17 09:34:59
大宰府を攻撃した時、大神(おおが)一族は3万騎の兵を率いていたといいます。
3万騎という大軍は誇張されているのでしょうが、
緒方惟栄やその兄臼杵惟隆らは、有事に備えて別府から
阿蘇に連なる久住高原や飯田高原の草原地帯で訓練していました。
彼らは優れた臼杵磨崖仏群を造るほどの財力と強力な
騎馬軍団を持っていたことになります。

平家が壇ノ浦で滅びると、後白河院と頼朝の対立が表面化し、
院は頼朝と不和になった義経を取り込み、鎌倉政権に揺さぶりをかけます。
義経都落ちの際には、緒方惟栄に命じて先導させました。

 
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