平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




原田種直の絵馬が裂田(さくた)神社にあるというので、安徳台から
岩門(いわと)城への途中に立ち寄りました。種直の絵馬は探せませんでしたが、
緒方三郎惟栄(おがたこれよし)の図柄を見つけました。


「安徳台入口」からコミュニティーバスかわせみ号に乗り「安徳」で下ります。









拝殿には数多くの絵馬が奉納されていますが、風化しそのほとんどが不鮮明です。

神殿の扉

緒方三郎惟栄(義)が本拠とした緒方館は、大分県豊後大野市緒方町にあります。
『平家物語』は「かの惟栄はおそろしき者の末にてぞ候ひける」として本体が大蛇であつた
大物主神の出自で、豊後国(大分県)の大神(おおが)惟基
の子孫だとしています。

平氏の大宰府掌握後、惟栄は平重盛(清盛の嫡男)と主従関係を結びますが、
源頼朝が挙兵した翌年の養和元年(1181)に肥後国の菊池高直・阿蘇氏や
九州武士
など広く兵力を動員し平家に反旗を翻しました。九州に下向した平貞能に
反乱は討伐されたものの、惟栄は再度謀反の機会をうかがっていました。
寿永二年(1183)七月に都を追われた平家が太宰府に到着すると、
安徳天皇は原田種直の館に入り、種直や山鹿秀遠の軍事力を背景に勢いを回復し、
宇佐大宮司公通(きんみち)はこれを支援しました。
『巻6・宇佐大宮司飛脚』によると、養和元年の反乱を都の平家に
いち早く飛脚で伝えたのも公通でした。
宇佐神宮発展のため、積極的に平家と結んで大宰府にも進出し、
大宰権少弐に任命され、さらに対馬守・豊前守にも任じられ、
北部九州は平家方の勢力によって占められていました。

これに対して後白河院は、九州における平家の地盤くずしを画策します。
院の息のかかった豊後守藤原頼輔(よりすけ)は、院の勅定(命令)だといって
平家を九州から追い出すように現地にいた
子息の頼経(よりつね)に命じ、
頼経は緒方惟栄に伝えます。
早速、惟栄はこれを院宣と称して
平家に九州退去を迫りましたが、平家はこれを拒否したため、
大軍を率いて太宰府を攻撃して太宰府を陥落させました。

平家一門を九州から追い払うと、惟栄は平家方の宇佐宮を攻撃し、
神殿に乱入して
神宝を奪い取り社殿を焼き払うなどの暴挙に及び、
宇佐神宮の黄金の
御正体(みしょうたい)を奪った罪で、
上野国(群馬県)沼田荘に流されましたが、翌年、平家追討の功により
恩赦を受け、西下し九州に上陸しようとしていた範頼に軍船を提供し、
範頼軍は蘆屋浦(遠賀郡芦屋町)で平家方の原田種直勢を破りました。
惟栄の活躍が見られるのはこの頃までです。

平家滅亡後、惟栄は頼朝と不和となった源義経に与し、義経が
九州に逃れようとした時、
領地の岡城(大分県竹田市竹田)に義経を
迎え入れようとしました。
しかし大物浦(兵庫県尼崎市)から出航した
一行の船は暴風雨で難破し、
惟栄の軍勢も散り散りになってしまいました。
惟栄は辛うじて帰国し佐伯に住んだとも、
帰国途上に病死したとも伝えています。


この緒方惟栄には、先祖の出生にまつわる恐ろしい伝説があります。

『平家物語・巻8・緒環(おだまき)の事』より、この伝説をご紹介します。
昔、豊後の片田舎に住む娘のもとに夜な夜な男が通ってきて娘は身ごもりましたが、
男は決して正体を明かしません。そこで母親の入れ知恵で男の狩衣の襟に針を綴付けて帰し、
娘が糸を辿って行くと、豊後国と日向国(宮崎県)との国境の姥岳(祖母山)中腹にある
岩屋に行きつきました。娘が声をかけると岩屋の中から大声で「汝がはらんだ子は、
九州・壱岐・対馬に肩を並べる者がない武士になろうぞ。」と答えます。
その声の主は喉に針を突きさされた五丈ばかりの大蛇でした。

そして娘が生んだ男の子は蛇のようなひび割れのある肌をしていることから
「あかがり大太(だいた)」と名づけられました。惟栄はその五代の子孫で、
大蛇は日向国で崇拝されている祖母山(そぼやま)南麓にある
高千穂神社のご神体だったということです。
緒方三郎惟栄館跡  

五条大橋、武蔵坊弁慶と牛若丸










裂田神社から原田種直の岩門城を望む。
『アクセス』
「裂田神社」福岡県筑紫郡那珂川町安徳
博多南駅からコミニュティーバスかわせみ安徳線約20分
「安徳」下車徒歩約15分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(中)新潮社、昭和60年「平家物語」(下)角川ソフィア文庫、平成19年
 県史44「大分県の歴史」山川出版社、1997年「大分県の地名」平凡社、1995年
 「大分百科事典」大分放送、昭和55年「郷土資料事典大分県」人文社、1998年

近藤好和「源義経」ミネルヴァ書房、2005年「源平合戦事典」吉川弘文館、2006年
森本繁「源平海の合戦」新人物往来社、2005年「大分県の不思議事典」新人物往来社、2007年 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
近畿から関東ぐらいが歴史の範囲かと思っていましたが (yukariko)
2016-10-14 21:38:30
奥州平泉は特別ですが他はあんまり出てこないですね。
だから九州の事情など全く知りません。
大宰府もですが、宇佐神宮も奈良時代にポンと名前が出るだけで後は全く忘れ去られたままだったのがここで大宰府と一緒に平家方として出てくるので、この時代、日本全国が源氏と平家に分かれて争っていたのがよく分かりますね。

緒方惟栄は義経に与していて九州に迎えようとしていたとか…源氏も中では色々だったのかと思いました。
 
 
 
大神一族 (sakura)
2016-10-16 08:46:00
Yukarikoさまは旅行がお好きなので大分県の湯布院や
別府には行かれたと思いますが、臼杵はどうでしょうか?

臼杵市には平安時代末期に造られた60数体の国宝臼杵磨崖仏があります。
伝説では、この磨崖仏は真名野長者が中国天台山から
やってきた蓮城法師に造らせたといわれています。
しかしこれだけの大規模な優れた磨崖仏群を造ったのは、
大きな経済力と政治力を有した人物であったとされています。
平安時代末期にこの地方の権力を握っていたのは、緒方惟栄の兄、臼杵惟隆です。
惟隆は弟緒方惟栄・佐賀惟憲とともに源平の争乱では、
頼朝方について活躍し源氏を勝利に導いた人物です。
この惟隆と当時の豊後国守である藤原頼輔が臼杵磨崖仏造立の功労者と見られています。

義経は大物浦で遭難しなかったら平泉ではなく、
大分県に逃れていったことになりますね。

 
 
 
宇佐神宮 (揚羽蝶)
2016-10-16 15:09:58
 裂田神社の、絵馬は歴史を感じさせ、立派だと思います。その中の緒方惟栄(恐ろしき者の末裔)に原田種直は、敗れたのですね。
また、平家としては八幡総本宮の宇佐神宮の御ちからを、十分得られなかったのは、残念です。
 
 
 
大蛇の子孫 (sakura)
2016-10-17 09:34:59
大宰府を攻撃した時、大神(おおが)一族は3万騎の兵を率いていたといいます。
3万騎という大軍は誇張されているのでしょうが、
緒方惟栄やその兄臼杵惟隆らは、有事に備えて別府から
阿蘇に連なる久住高原や飯田高原の草原地帯で訓練していました。
彼らは優れた臼杵磨崖仏群を造るほどの財力と強力な
騎馬軍団を持っていたことになります。

平家が壇ノ浦で滅びると、後白河院と頼朝の対立が表面化し、
院は頼朝と不和になった義経を取り込み、鎌倉政権に揺さぶりをかけます。
義経都落ちの際には、緒方惟栄に命じて先導させました。

 
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