平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
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源義朝敗走(不破の関・小関)
平治の乱義朝・常盤・...
/
2009-10-04
平治の乱で敗れた義朝は、
都を北へ向かい、龍華越から琵琶湖畔を南下、
湖南を廻り近江をすぎ伊吹山麓にかかると、雪はさらに深くなり
一行は秘蔵の馬を途中で捨て、武具を着けていては歩きにくかろうと
源氏重代の鎧・義朝の盾なし、悪源太義平の八龍、太夫進朝長のおもだか、
頼朝の源太産衣なども雪の中に脱ぎすてます。
日下力『平治物語』によると、平安時代の大鎧は
25~30キロ、甲は4~5キロあったという。
激しい吹雪のため視界も悪く、まだ
13
歳の頼朝は、ついて行けず再び
落伍してしまいます。義朝の乳母子鎌田正清が引き返し
「佐(すけ)殿(頼朝)はいらっしゃいますか。」と呼ぶが返事がありません。
義朝は、母親の家柄が兄たちよりも良い頼朝を、跡継ぎと決めていて、
源家嫡流に伝える源田産衣や髭切の太刀を平治の乱で、
初陣の頼朝の身につけさせその意思を明らかにしていました。
その頼朝がはぐれてしまい義朝は、いとほしさに「どこまでも頼朝と一緒に
行こうと思っていたのに
…
敵に捕われて斬られてしまったか。
そうでなくともこの吹雪の中、よもや生きていることはあるまい。
自害して頼朝の処に行こう。」と刀を取り出し自害しようとするので正清は
「殿がご自害なさったら義平さま、朝長さまも殿のお供をなさいます。」など
あれこれと言って義朝を説得し先を急がせ、小関を過ぎ、
美濃国青墓の宿(あおはかのしゅく)に何とかたどりつきます。
不破の関跡から伊吹山を望む
ここで義朝が避けたという不破の関や、
不破の関の間道にあったという小関をご紹介させていただきます。
古来より畿内と東国を結ぶ東山道に設けられた不破関は、
中山道の要衝で、
東海道鈴鹿関(三重県亀山市)、
北陸道愛発(あらち)関(福井県鈴鹿市)とともに
三関と称されています。
JR東海道線関ヶ原駅を降り国道21号線から旧中山道に入ると不破関資料館、
不破関由来の碑があり、その付近一帯が不破関跡です。
ここは北には伊吹山の山並が、南には鈴鹿山脈が迫る狭間で、
畿内と東国を結ぶ東山道の要所として歴史上に度々登場した場所で、
近世には関ヶ原合戦が行われたことはよく知られています。
不破の関跡
不破関庁跡と兜掛石の駒札
不破関は、『日本書紀』天武元年六月条の壬申(じんしん)の乱に、
度々
記されている「不破」の場所です。
壬申の乱(672年)後、不破道の重要性から
不破関が設けられました。
源義朝が頼った青墓宿の長者大炊は、壬申の乱で
活躍した
多臣品治(おおのおみほむじ)の子孫にあたり「多」から「大炊」と
名乗るようになったといわれています。
桓武天皇の勅により往来の障害になっているとして、延暦八年(789)
不破の関を含む三関が廃止されましたが、いつの頃か再び不破関が復活し、
東山道を通る人や荷から関銭を徴収するようになります。非常時には
関の封鎖を命じる固関の儀式が紆余曲折をへながら江戸時代まで続きます。
不破の関の遺構は、西側を流れる藤古川の断崖、北・南・東には
土塁を
めぐらせた要塞であり、その面積は12万3500㎡におよび、
瓦葺の建物が数多く建っていました。
その中央部を東山道が通り、東山道に沿って
北東には、
国府、国分寺などの国家施設が置かれ、その東が青墓です。
この辺まで来ると一気に濃尾平野が広がっています。
美濃国分寺跡
国分寺に隣接する歴史民俗資料館
北国脇往還(のちの北国街道)沿い不破の関跡の北約1・5Kに小関(こせき)と
いう地名が見え、不破の関の間道を守る小関の所在地であったと
伝えられています。増田潔『京の古道』によると、小関とは、
主たる大関の脇道に柵を設けて作られた副次的施設の「剗(せき)」つまり
「小関」からその名はきている。とあります。
伊吹山南麓の小関は、『平治物語』の中で、義朝が東国に逃走する際に、
抜けたという関であり、これに対して不破の関のあった松尾地区を
大関と称し、
後に大関を関ヶ原と呼ぶようになります。
→大谷義隆墓と刻まれています。
藤古川橋から今須川沿いの車道に出て進むと、その先は
関ケ原町の平井集落から分岐して松尾山(標高293㍍)へと続きます。この山は
関ヶ原合戦の時、西軍から寝返った小早川秀秋が陣を構えていたという所です。
西軍の総将石田三成が小関の北・笹尾山に陣取り、南の
山中(やまなか)には、
大谷吉継(別名吉隆)軍が中山道を押さえていました。
敗退した三成は、伊吹山中で捕えられ京都六条河原で処刑されます。
『アクセス』
「
不破の関資料館」
岐阜県不破郡関ヶ原町松尾21-1
JR
関ヶ原駅下車徒歩20分
「美濃国分寺跡」「大垣市歴史民族資料館」大垣市青野町419
JR
関ヶ原駅下車徒歩40分
『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 日下力「平治物語」岩波書店
増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 水原一「平家物語の世界」日本放送出版協会
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館
「岐阜県の地名」平凡社 「岐阜県の歴史散歩」山川出版社
「岐阜県の歴史」山川出版社 「近畿文化」
№
649近畿文化事務局
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