平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平治の乱で敗れた義朝は、再起を図って東国を目指す途中、
美濃国(現、岐阜県)青墓の宿(しゅく)に入りました。
義朝は東国と都の間を往来する度に、青墓長者の大炊(おおい)邸で宿泊し、
長者の娘延寿(えんじゅ)との間に
夜叉御前(やしゃごぜ)という10歳になる娘がいます。

義朝一行が到着すると長者は一行を匿ってくれました。
ここで一息つくと、義朝は長子の悪源太義平と次男朝長(ともなが)に
「悪源太は北国へ下れ。朝長は信濃に下って甲斐(山梨)、
信濃の源氏一族を集めて都へ攻め上れ、
父は東国から上る。三手が一所になれば平家を滅ぼし、
源氏の世になることは間違いあるまい。」
と命じます。
しかし朝長は青墓を出たものの、龍華越えで比叡山の
僧兵に射られた太ももの傷が痛んで歩けず、
とても父の期待に応えられないと舞い戻ってきました。

義朝は「不覚者め!頼朝ならば幼くてもこうはあるまい。

敵の手にかかるより父の手で、近づいて念仏申せ。」と言いますが、
東国育ちの剛の者悪源太と違い、
中宮御所に仕える中宮太夫進朝長を
『平治物語』は「朝長生年16歳、雲の上のまじはりにて、
器量、ことがらゆふにやさしくおはしければ」と語っています。

朝長の母は、相模武士波多野義通の妹です。
波多野氏のもとで養育された朝長は、伯父の義通や母とともに
上洛して京で活動し、保元4年(1159)2月には
従五位下中宮少進(しょうじん)に任じられていました。

その朝長が首をさしのべ念仏を唱える姿に義朝は涙がとまりません。
一旦は延寿に止められましたが、結局わが手にかけました。
大炊と延寿が「ここで年を越してから東国へ下られては
如何でしょうか。」と引き止めますが
「ここは街道沿いであるので、人目も多い。」と
青墓を出ようとする所に、義朝の噂を聞きつけた土地の者らが
「落人を討て」と大勢押し寄せてきました。


これを見て佐渡(源)重成が身代わりとなって義朝を逃がします。
青墓の東、赤坂にある
児安の森(現・子安神社辺)に駆け込み、
自分を誰とも分からせないよう顔の皮をけずり、腹をかき切って
まだ29歳というのに死んでしまいました。
こうした騒ぎの間に、義朝主従は青墓の宿を出発します。

義朝一行が立ち去った青墓では、夜が明けても朝長が出てこないので、
延寿が障子を開けて見るとすでに亡骸となったが朝長が横たわっています。
泣く泣く遺体を邸の裏の竹林の傍に埋めて冥福を祈りました。

元円興寺の麓

県道大垣池田線(R241)を北へ行くと右手に青少年憩いの森遊歩道入口があります。
そこから山道を20分ほど上ると広場にでます。ここが元円興寺の仁王門跡で、
芭蕉の句碑や元円興寺跡の説明板が立てられています。

仁王門跡から道は展望台への道と元円興寺の伽藍跡や源朝長の墓への道と
二手に別れます。左手の山道に入るとすぐに刀石、源朝長の墓、
その隣には苔むした大炊氏一族の墓があります。


史跡「元円興寺跡」
延暦九年(790)三月伝教大師最澄が東国教化の途中、この地に立ち寄られて
山頂附近一帯に壮麗な七堂伽藍を配した円興寺(本尊・木造聖観音立像)を
創建されたと伝えられる。当時は、坊舎末寺等・百余ヶ寺、寺領五千俵を領し、
山麓一帯は多数の仏徒の往来もあり、繁栄したものと思われる。
天正二年(1574)織田信長の兵火にかかり、七堂伽藍は悉く灰燼に帰したが、
慶長元年(1596)田之堂(現在地)に本堂と五坊とが再建された。
しかし、承応元年(1652)雷火によって再び消失した際に、
この地はもともと湿地帯であったので、万治元年(1658)現在の円興寺が
この山の西麓に建立された。(現地説明板)


芭蕉が朝長の墓に参り悼み詠んだ
♪苔埋む 蔦(つた)のうつつの 念仏哉

芭蕉句碑



朝長の墓入口には、参拝する際の礼儀として刀を一時おいたという刀石があります。

朝長の墓



中央左から朝長、義平、義朝、
左脇には朝長と同時に切腹した家臣の五輪塔がひっそりと祀られています。





青墓大炊氏先祖の多臣品治(壬申の乱)  
朝長の墓の隣に祀られている大炊一族の墓 
大炊氏は壬申の乱で活躍した多臣品治の孫です。
多氏は大海皇子の地である多地方の荘官でしたが、
青墓に移り姓を大炊と改めました。
青墓宿(よしたけ庵・円興寺)  

『アクセス』
「元円興寺・朝長の墓」
JR大垣駅 →「赤坂総合センター行き」バス乗車25分位終点下車
→自転車で15分→青少年憩いの森遊歩道入り口→朝長の墓まで
約1㎞の細い山道を上ります。(徒歩約25分)
赤坂総合センター隣の消防署で無料レンタサイクルをお借りしました。

円興寺の境内から山道を辿ると(裏参道)東方の山中にある
元円興寺、朝長の墓所へと通じるのですが、
「クマ出没」の注意書きに予定を変更して表参道から上りました。

『参考資料』
日本古典文学大系「保元物語・平治物語」岩波書店 
日本歴史地名大系「岐阜県の地名」平凡社

 



 
 
 
 





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