平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




平氏一門の館は六波羅にありますが、清盛は西八条殿(どの)も営んでいました。
六波羅は東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀にアクセスするのには
便利でしたが、京都政界を掌握するには不十分でした。
そこで比較的六波羅に近い、東寺の北側付近に
西八条第(てい)をつくりました。西八条は七条町
(現、京都駅北側一帯)に近く、西国へ通じる交通の要衝にあります。
ちなみに一ノ谷合戦出陣の際には、義経が摂津国の
軍勢を七条口(丹波口)に集結させています。

清盛と西八条の関係は、承安3年(1173)に清盛の妻
時子が持仏堂を建立したことに始まります。

全盛期には六町(約2万6千坪)という広大なもので、
現在の梅小路公園の南部分とJRの線路部分に位置しています。
清盛が内大臣になった頃から、整備・拡張がすすめられたようで、
ひと続きではなく一町(約109m)ごとに独立した邸宅が集まっていました。
清盛は太政大臣を辞任してから、福原(神戸市)に居を移しましたが、
上京の際にはこの邸宅を使用しています。

『平家物語図典』(左京四条以南略図より一部転載し、文字入れしました。)

清盛の西八条第の一町おいた東、八条二坊五町には、小松殿とよばれた
清盛の嫡男・
重盛(1138~79)邸、西八条第の南隣には重衡邸、
八条大路沿いには頼盛邸、宗盛邸が存在したことが記録に残っています。

不動産開発に伴い、重盛邸があった平安京の左京八条二坊五町
(南区猪熊通八条上ル戒光寺町)の一部で実施された
発掘調査で庭園の池跡が発見されました。


JR京都駅前



八条通リを西へ進みます。

戒光寺公園前を通り過ぎてさらに西へ

猪熊通りを北へ

調査地 南区猪熊通八条上ル戒光寺町

平家滅亡後、重盛邸跡には宋から帰国した曇照(どんしょう)律師が
戒光寺(かいこうじ)を建てましたが、応仁の乱に被災後、市内を転々として
江戸時代に現在の泉涌寺の山内に移され塔頭となりました。
現在も戒光寺町としてその名を残しています。

調査地付近の猪熊通りから南を眺む

小松殿池跡出土のニュースを伝える京都新聞

平清盛嫡男・重盛の邸宅「小松殿」の一部か、南区で発掘調査 庭園の池跡
平重盛の邸宅「小松殿」の推定地で見つかった池跡(京都市南区)
 平清盛の嫡男・重盛(1138~79年)が平安時代末期に構えた邸宅
「小松殿」の一部とみられる庭園の池跡が、京都市南区猪熊通八条上ルの
発掘調査で24日までに見つかった。担当した民間調査会社は、権勢を拡大した
平氏が平安京郊外の軍事拠点・六波羅に加え、平安京内でも
政治的な拠点を形成したことを裏付ける遺構としている。

 平氏は平治の乱(1159年)で勝利し、軍事貴族として確固とした地位を獲得。
清盛は現在の梅小路公園(下京区)一帯に「西八条第」を築いた。
文献では近くに一門の邸宅群もあったとされ、今回調査した
平安京左京八条二坊五町が小松殿の推定地とされる。不動産開発に伴い、
文化財サービス(伏見区)が21日まで約225平方メートルを調べていた。

 池跡は幅が東西12メートル、南北11メートルで、水深は最大0・3メートル。
池の東側に石などを用いて盛り土し、岸や陸部に向かうような傾斜があった。
一帯は平安後期ごろから急速に開発が盛んになるが、それまでは
鴨川の氾濫が及ぶエリアで、湿地帯に手を加えて池にしていたとみられる。
 池跡を覆う土からは平安末期から鎌倉時代初期の瓦や土器が出土。
この時期に集中し、同社は鎌倉初期ごろに一気に埋められたとみる。
池底に近い粘土層などに松ぼっくりが多く含まれることから
クロマツが近くに植えられていたと分析する。 同社の大西晃靖さんは
「多くの松ぼっくりが池底に堆積し、中にはネズミがかじった痕跡もあった。
一時の栄華に終わった平氏の没落を受け、
邸宅の庭や池も放置されていたようだ」と説明する。
 
重盛は平氏軍政の中心を担って清盛から棟梁(とうりょう)を継ぎ、
平家物語では文武に優れた温和な人物として描かれた。
だが79年に父より早く死去し一門の衰亡にも影響した。
源氏挙兵を受けた都落ち(1183年)で西八条第一帯は焼き払われたとされる。

 龍谷大の國下多美樹教授(考古学)は「小松殿は六波羅にある
同名の邸宅が知られるが本格調査はされておらず、別の場所とはいえ
初めて考古的に存在を明らかにできた。貴族邸宅の造りとすれば、
今回は池の南西端が検出されたとみられ、
北東側に建物跡があったと想定される」と話している。(日山正紀)
西八条第跡(西八条第跡の石碑)
  アクセス』
「平重盛邸跡」京都市南区猪熊通八条上ル戒光寺町
京都駅八条口下車徒歩約15分。
『参考資料』
「京都新聞朝刊」2019年6月25日
 京都市埋蔵文化財研究所監修「平清盛 院政と京の変革」ユニプラン、2012年 
高橋昌明編「別冊太陽平清盛 王朝への挑戦」平凡社、2011年 「平家物語図典」小学館、2010年
「京都市の地名」平凡社、1987年 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛東上)」駿々堂、昭和55年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



コメント ( 7 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
八条・九条の錚々たる甍群 (ren)
2019-07-29 14:50:19
西八条第近くの中学校に通っていましたので、土地勘があります。平家物語では清盛の下知のもと武装した兵士群が界隈を埋め尽くす様子が描かれ、そこに平服で悠然と現れる重盛が男前に描かれています。今回の発掘場所から駆け付けたのでしょうか。東山にも小松邸跡はあり、そこから来たのかなと勝手に思っていました。それにしても平家物語の時代を彩る面々の屋敷が並んでいますね。九条家はやっぱり九条なんですね。(笑)最近ある講演会で養和の飢饉の影響が平氏瓦解に計り知れない影響があったことを力説されていました。平氏はまともに戦えないほど、食糧不足であったとのこと。最新の「年輪酸素同位体」調査で干ばつのすさまじさが裏付けられたこと、源平争乱から戦国期まで気候の異常期であったことが裏付けられたことを知りました。「食べられない」という単純ですが切実な問題が中世の動乱の真実だと改めて気づかされました。
 
 
 
Re:八条・九条の錚々たる甍群 (sakura)
2019-07-30 17:40:23
Renさま
以前、京都に住んでおられたそうですね。
平家物語にとって京都は外せないところです。
Ren様もいくどもお訪ねになった場所がおありなのでしょう。

平安時代中期以後の公卿や官人の住居は左京の一条から
四条にかけて集まる傾向にありました。しかし院政期になると、
「左京以南略図」で見るように四条から南に住むものが多くなりました。
平安時代末期、京都駅の周辺は、平家物語に登場する
人々の邸宅が軒を連ねていたのですね。

清盛は鹿ケ谷事件前後、しばらくは西八条邸に住んでいたことは
「平家物語」に記されています。しかし、重盛が
清盛の西八条第に駆けつけたのは、東山からだったのか、
西八条第近くの邸からだったのかは申し訳ございませんがわかりません。

手もとにある「平家物語」や「源平盛衰記」、
参考資料などを探してみましたが、記されていませんでした。

京都駅ビル建設と周辺の再開発により大規模な発掘調査が実施され、
八条第(八条院暲子内親王の御所)跡のプレートが
JR京都駅構内に架けられています。

清盛終焉地とされる平盛国邸は、長い間、九条河原口(平安京南隅の九条四坊十三町)と
されてきましたが(『吾妻鏡』)、中原師元の日記『師元朝臣記』によって、
平成24年12月、「八条河原口」に石碑が建てられました。

コメントにお書きくださったように、
平家による諸国での反乱の鎮圧が順調に進まなかった理由として軍事的・政治的要因の以外に、この時期我が国を
大飢饉が襲っていたことがあげられています。
鴨長明がこの飢饉の様子を「方丈記」に詳細に記しています。
養和の年号が寿永に改元されたのも飢饉が理由とされています。
吉田経房は「吉記」に養和の大飢饉で、五条河原付近で
飢えた童が死人の肉を食べたという伝聞を記しています。
過酷な自然条件が平氏の動きを制約していたのですね。


 
 
 
重盛邸関連お調べいただき恐縮です。 (ren)
2019-07-30 20:20:04
懇切なご説明ありがとうございました。「方丈記」に関しては源平争乱から鎌倉初期の災害の記録書と言ってもよいものだと思いました。ありとあらゆる災害が都を襲いました。道端にあふれた犠牲者の額に梵字を書くことで供養した僧の話や赤ん坊を抱いた母子の犠牲者の姿に打ちのめされた長明のことが印象に残っています。ところで、近年琵琶湖の北部の塩津で中世屈指の港が発掘されました。中世琵琶湖の物流は、日本海や東国からの物資が集積したことで、全国の産物の5分の2が集まったという研究もあるようです。「重いものは船」「比較的軽いものは、陸路」が当然だったようで、コメは船が主だったようです。当然港(津)は王家の所領となりましたが、叡山に寄進されることもあったようです。承久の乱のあと、塩津は後鳥羽上皇から鎌倉からやってきた地頭熊谷直実の子孫に取って代わられたようです。
 
 
 
Re: 重盛邸関連お調べいただき恐縮です (sakura)
2019-07-31 08:55:55
鴨長明が生きた頃の京都は大きな災害に見舞われていたのですね。
「方丈記」の書き出し「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
久しくとどまりたるためしなし。」はよく知っていますが、
深く学んだことはありませんでした。

ちょうどこの4月からNHKラジオ古典講読で「方丈記」が始まり、
この書の解釈や内容、特徴などについて学んでいます。

Renさまにもコメントにお書きいただき、「方丈記」が
いっそう身近な書物になりました。
ありがとうございました。

 
 
 
追記 (sakura)
2019-07-31 09:03:09
承久の乱のあと、塩津は後鳥羽上皇から鎌倉からやってきた
地頭熊谷直実の子孫に取って代わられたようです。
参考にさせていただきます。
 
 
 
あちこちで歴史に埋もれた足跡が発見されていますね。 (yukariko)
2019-08-02 12:26:20
先日の六波羅邸堀跡出土もそうですが、京都も大掛かりな再開発のための調査で、深くまで掘り下げそれまで分からなかった遺構が新たに見つかっていますね。
ずっと深くまで掘り下げると各時代の遺物や焼土が積み重なっているそうですが、後にホテルなどが建ってしまうにしても、調査はありがたいことですね。

書かれた「ren」様のコメントを読ませていただき、それに対するsakura様のお返事からも、この時期我が国を
大飢饉が襲っていたのを知りました。
都の貴族化した平氏とは違い、土着の武士として地方で暮らす源氏の家人達のギラギラした手柄を立てて恩賞に預かりたいという欲望は、時代を打ち壊したいほどの切実な思いが底にあったのでしょうね。

 
 
 
京都市内の建設ラッシュ (sakura)
2019-08-03 16:48:08
その背景には、世界的な好況や金融緩和で膨張した
投資マネーの流入があるといわれています。
特に中国の富裕層らによる京都の宿泊施設への投資が多いそうです。

お書きくださったように、発掘調査によって土の中に眠る
もうひとつの京都の魅力を紹介していただけるのはありがたいことですね。
 
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