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小さく見える事件でも裏には幾つもの伏線がつきものですが… (yukariko)
2012-09-11 12:35:08
私たちが話やお芝居で知っている鹿ケ谷事件では、平氏打倒の共同謀議の俊寛と平康頼と成経がともに鬼界が島に流され、後に許された時、俊寛だけは恩赦がなかったというその前後の悲劇が有名ですが、そこに至るまでには法皇側と山門側一通りではない幾つもの事件があったとは!

学者の方々は800年以上のちの今も事件の真相を追及されているのですね。

確かにこの時の清盛の怒りが凄まじかったのは、裏の諍いと比叡山焼き討ちをチャラにすべく、謀叛の謀議に対して重い刑罰を科し、重盛と妻の姻戚関係、身内さえも処分する必要があった…ありそうな話です。

裏の事情を全く知らないから、清盛というのは「瞬間湯沸かしポット?」なのかなと…すぐに熱くなり沸騰する(笑)



 
 
 
歴史学の面白さとでもいうのでしょうか。 (sakura)
2012-09-12 16:43:41
さまざまな史料の再検討がなされ、誰もが信じていた歴史像に疑問が呈せられ、
これまで史実とされていたことが、時に揺らぐことがあります。
行綱の密告を平家物語のでっちあげと見るか、平家物語の記述を肯定するのか。
残された史料と状況証拠から研究者たちが疑問点を突き詰めて下さって、新史実の発見となるのでしょうか?これからの研究が待たれます。

平氏との姻戚関係が深い成親
藤原成親は野心家だったため平治の乱では反乱軍に加わり、その後も解官や流罪に処せられ、最期は清盛のリンチで哀れな末路をたどります。
次回、成親が先のとがった武器を地中に埋め立てた上に崖の上から突き落とされた。という吉備をたずねます。

 
 
 
私の見解について (川合康)
2022-03-15 09:59:55
本ブログで、「この事件に関しては、本当に平家打倒のクーデター計画があったのか、それとも清盛が平家に対して反抗的な院近臣勢力を一掃するためにでっちあげたのかは、定かではありませんが、河合康・下向井龍彦両氏は、鹿ケ谷事件は清盛の謀略であると、それぞれの御著書で述べておられます」とお書きになっておられます。この「河合康」が私のことであるならば、私はそのようなことを述べておりません。安元三年の政変は、のちに語られるような「鹿ケ谷事件」ではなかったことを論じました。ご確認下さい。
 
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