義仲寺は荒廃と復興を繰り返してきました。寺伝によれば、室町時代末に
近江国守護・佐々木(六角)氏によって再建され、その後荒廃したところ、
元禄期に芭蕉が度々滞在し、墓所と定めたことで復興し、さらに荒廃したのを、
江戸中期には京都の俳僧、蝶夢(ちょうむ)が復興しました。
そして戦後、荒廃していた寺の復興に尽力したのが保田與重郎と三浦義一です。
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芭蕉没後、丈草が無名庵の庵主となり芭蕉の墓を守りながら毎月、同門の輩を
招いては句会を開いていました。しかし、京都落柿舎の向井去来、続いて丈草が
亡くなると、間もなく蕉門(芭蕉一門)は解体し、檀家のない義仲寺は廃れます。
寛保3年(1743)の芭蕉五十回忌前後から蕉風復興運動が起こり、
安永年間(1772~1781)には、芭蕉へかえれという復古運動が高揚、
芭蕉は俳聖として次第に伝説化されていきます。こうした流れの中、
蝶夢は宝暦13年(1763)芭蕉七十回忌に義仲寺に参詣したのを契機に
再興を決意し、明和5年(1768)、浄財喜捨(じょうざいきしゃ)を募り、
翌年に翁堂(芭蕉堂)などを再建しました。
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寛政3年(1791)には芭蕉の遺品や俳諧の小書籍書画を納める
粟津文庫を創設し、同5年(1793)には、諸国の俳人500人を集めて
芭蕉百回忌を盛大に行いました。
これを記念し制作された『芭蕉翁絵詞伝(三巻)』は、蝶夢が11年の歳月を
かけて芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れた絵巻です。
天明2年(1782)には『芭蕉門古人真蹟』を収集し、いずれも粟津文庫に納めています。
この文庫の史料什宝は、史料観にて適時取り替え展示・公開されています。
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その後、安政3年の火災、琵琶湖大洪水など、
度々改修が行われましたが、戦後、荒廃、壊滅に瀕していた寺を、
三井寺円満院から買い取り、朝日堂・無名庵、翁堂を修復し、
昭和40年、時雨忌に再建落慶法要が営まれました。
これに要した一切の費用は、東京の三浦義一翁の寄進と
大分の株式会社後藤組会長、後藤肇氏の施工奉仕によるものです。
修復工費は約一千万円。(『義仲寺と蝶夢』)
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拝観の際に寺務所で、保田與重郎撰文(文章)による
「昭和再建落慶誌」をいただきました。
そこに昭和再建の模様が具体的に記されているので全文を掲載しておきます。
昭和再建落慶誌
史蹟義仲寺は近時圓満院の所管となつてより寺庵荒廃壊滅に瀕し
両墳墓の存続さへ危い状態にて県市当局による保存の方策も悉く
失敗に終つた 時に東京都三浦義一翁京都在住の知人によりこれを知るや
巨額の私財を寄進して 義仲寺を圓満院より分離独立させた
同じ時大分市後藤肇氏これを聞き発奮して 大分より工匠職人を率ゐきて
朽頽の寺庵総てを再建修理し 併て造園の工事を終る
昭和四十年十月十二日 義仲寺無名庵昭和再建落慶法要を挙行
石鼎法師の晋山式と芝蘭子宗匠の入庵式行ふ 天高く晴れ大衆境内に満ち
近来の盛儀となる此度義仲寺無名庵昭和再建に当り
東京都大庭勝一氏の奉行の盡力殊に甚大であつた
昭和四十一年六月四日社団法人義仲寺史蹟保存会発足に当り
義仲寺無名庵昭和再建の由来を誌し 千秋萬歳に史蹟永存を祈願する
昭和四十一年六月四日 保田與重郎撰文並書
境内の最奥に、この寺の再建を呼びかけた保田與重郎と
巨額の私財を寄進した三浦義一の墓があります。
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保田與重郎(よじゅうろう)は、戦前「日本浪漫派」を創刊し、
強烈な近代精神によって日本主義文学を打ち立てたことで知られた評論家。
第二次世界大戦を正当化し一躍時代の寵児となりますが、
戦後は戦意高揚に加担したと批判されて
一時、公職追放を受け、文壇からも放逐されました。
終戦によって自分の思想・信念を曲げなかったきわめて稀な文筆家です。
著書も多くあり、中に『芭蕉』『後鳥羽院』『日本の橋』などがあります。
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三浦義一は、昭和時代の政財界のフィクサーで歌人。
中学時代に短歌「維新の会」同人、アララギ派に属し早大予科に進み、
文学の道を志して北原白秋の内弟子となりますが、
血気に逸り門を去り、早稲田大学を中退して大分に帰ると
父三浦数平(大分市長、衆議院議員)のコネで九州電力に入社。
昭和2年、再び上京して政治活動に入り、大亜義盟及び国策社を結成します。
同7年宮内省御用菓子舗虎屋恐喝事件、同9年三井合名会社顧問・益田孝を
不敬罪で恐喝、同14年中島知久平(ちくへい)狙撃事件をおこし、
これら3事件で懲役2年の判決を受けています。
戦後は右翼運動の育成に力を尽し、また政財界の黒幕となり、
東京日本橋室町に事務所を構えたことから室町将軍と異名をとります。
歌集に「当観無常」「玉鉾の道」「悲天」があります。
『参考資料』
「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「義仲寺案内」義仲寺
「芭蕉、蕪村、一茶の世界」美術出版社 現代日本「朝日人物事典」朝日新聞社
「20世紀日本人名事典」日外アソシエーツ 京都・身余堂の四季「保田與重郎のくらし」新学社