平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




滋賀県大津市の朝日山義仲寺(ぎちゅうじ)は、室町時代末に
近江守護の佐々木六角氏が義仲の菩提を弔う寺を
建立したことに始まると伝えられています。

江戸時代の中頃までは、木曽塚・無名庵(むみょうあん)と呼ばれ、
義仲の墓の傍に柿の木があるだけの小さな寺だったという。
境内には木曽義仲と芭蕉の墓があり、
境内全域が国の史跡に指定されています。

京阪電車膳所駅から琵琶湖岸に向かって約350㍍進みます。
旧東海道との交差点を左折し、約50㍍進むと左手に義仲寺があります。

琵琶湖の西岸、寺の前の道は旧東海道です。
古くはこの辺りを粟津ヶ原と呼んだという。

武家屋敷のような山門の右手の地蔵堂は巴地蔵堂と呼ばれ、
古くから地元の信仰を集めています。



芭蕉がこの寺を初めて訪れたのは、奥の細道の旅から帰った
元禄2年(1689)、ちょうど寺の修理を終えた頃でした。

この年の暮れはこの寺で過ごして新年を迎えました。
その後も粟津の戦いで最期を遂げた義仲の武骨な生き方に共鳴し、
敬愛していた芭蕉はこの寺に
度々滞在しています。
湖南には芭蕉が信頼する膳所藩重臣の本田臥高・菅沼曲水や
曲水の伯父水田正秀などの多くの門人がいました。なかでも曲水は、
石山寺に近い国分山中にあった庵を幻住庵として芭蕉に提供し、
義仲寺境内には水田正秀によって無名庵が建てられます。

山門を入ると境内右手に寺務所、史料観・朝日堂その奥に翁堂が建ち並び、
左手に芭蕉ゆかりの俳書などを納めた粟津文庫・無名庵と続きます。
庭には山吹・巴塚・木曽義仲の宝篋印塔、その右隣には芭蕉の墓が並び、
芭蕉や無名庵主らの20基近い句碑が点在しています。境内奥に義仲寺鎮守の
木曽八幡社や曲水、昭和再建に尽力した保田與重郎などの墓があります。

















芭蕉翁真筆句の版木

朝日将軍にちなむ朝日堂

朝日堂には、本尊の聖観世音菩薩・義仲・義高父子の木造が納められた
厨子や今井兼平、芭蕉と門弟らの位牌が祀られています。




芭蕉像を安置する翁堂には、芭蕉と丈艸・去来の木像、側面に蝶夢の陶像、
壁には三十六俳人の画像が掛けられて弟子たちが今も寄り添っています。

天井は伊藤若冲筆四季花卉(かき)の図です。
尚、『義仲寺案内』には、「翁堂は安政3年(1856)類焼、同年再建、

現在の画像は明治21年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を
制作し奉納したものである」と記されています。



元禄7年(1694)9月、旅先の大阪で病に伏せた芭蕉は、
大坂本町の薬屋だったという弟子の之道(しどう)宅から
近くの南御堂前の花屋仁右衛門の貸座敷に病床を移します。
臨終の床で、大津の乙州(おとくに)に「さて、骸(から)は木曽塚に送るべし。
爰は東西のちまた、さざ波よき渚なれば、生前の契深かりし所也。
懐かしき友達のたづねよからんも、便わずらわしからじ。」
(路通『芭蕉翁行状記』)と語ったといいます。

治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨を受けて挙兵した義仲は、
倶利伽羅合戦で平家軍に大勝し、北陸道から京へ入り平家を西国に追いやりました。
しかし、朝廷と源平の三つどもえの争いの中、後白河法皇と対立し、
法皇の命を受けた源範頼・義経軍と戦い寿永3年(1184)に粟津で戦死しました。


芭蕉は義仲をこよなく愛し、大坂で逝去の際、
義仲寺の木曽塚の隣に埋葬してほしいと遺言し建てられた墓。


無名庵

木曽塚は義仲寺にある義仲の墓所ですが、芭蕉は「膳所は旧里のごとし」と語り、
湖南蕉門らの集う無名庵を幾度となく訪れ交流を重ねています。
芭蕉の時代、比良・比叡の山なみが連なる琵琶湖に面し、道のすぐそばまで
波が打ち寄せる風光明媚な木曽塚の地は芭蕉が愛したところです。
東海道沿いにあるこの地は、懐かしい人たちが訪ねてくれるのに都合がよく
自分の死後も弟子たちが時折尋ねて来て句会を催すことを望んでいたようです。
ちなみに大津市打出浜・におの浜付近の湖岸は
市街地を広げるため、昭和30年代に埋立てられました。

元禄7年10月、芭蕉の遺骸は遺言通り、門人の手で花屋仁右衛門別宅から
川舟に乗せられ、淀川を遡って琵琶湖畔に到着し、木曽塚の隣に葬られました。
丈艸(じょうそう)筆による「芭蕉翁」の文字が刻まれた
塚の傍には冬枯れの芭蕉が植えられます。
芭蕉は悲劇の武将義仲や義経に心惹かれたといわれています。
ともに源氏再興を願い平家追討に身を捧げながら
やがて頼朝と対立し歴史の舞台から消えてしまったという意味では、
義仲と義経は同じ運命を辿ったということになります。

「おくの細道」の旅で芭蕉は平泉高館に上り
奥州藤原氏三代が滅亡したあとの夏草が生い茂る情景を
♪夏草や兵どもが夢の跡 と詠んでいます。
平泉は奥州藤原三代・清衡、基衡、秀衡が居を構え、
高館には義経の館があったといわれ、
父、秀衡の死後、鎌倉方と組んだ泰衡にこの館を襲われた
義経は妻と娘を殺害したのち自害します。
時に31歳、奇しくも義仲がこの世を去ったのと同じ年令でした。

この旅の途中に多太神社(石川県小松市)に参拝し、
幼い義仲を木曽へ連れてきてくれた斎藤実盛の
遺品の兜を拝見します。実盛は始め源氏の武将でしたが、
平治の乱後、平宗盛に仕えていました。
きりぎりすの鳴き声を聞き
実盛の無残な最期を思い起こし「むざんやな」と嘆き
♪むざんやな甲の下のきりぎりす の句を奉納、
やがて白山が見えなくなる旅の最後には、
湯尾峠を越えて源平古戦場の燧ヶ城(ひうちがじょう)へ。

義仲軍を迎え撃とうと、北陸路を進んだ平家軍はこの城にたてこもる
義仲方の軍勢を破り加賀に攻め入り、その後、
倶利伽羅峠の合戦で平家軍は義仲軍に大敗することになります。
♪義仲の寝覚めの山か月悲し と吟じ、
木曽塚の傍らの無名庵に滞在し、真直ぐで豪胆な義仲の性格を
雪の下でたくましく芽吹く草にたとえて
♪木曽の情雪や生えぬく春の草 の句を作っています。

『姓氏家系大辞典』によると、芭蕉は桓武平氏拓植(つげ)氏族で
平宗清の末裔により、宗房と名乗ったと記されています。
芭蕉が義経・義仲にとりわけ強い思いを寄せていたことについて
『芭蕉 最後の一句』には次のように書かれています。
「伊賀国は室町時代から群小の土豪の力が強く、織田信長の次男
信雄(のぶかつ)の侵攻も撃退していたが、天正九年、信長は
大軍で攻め寄せ、抵抗する伊賀の土豪を殲滅(せんめつ)掃討した。
芭蕉は伊賀の土豪の出身であると思われることから、
源氏の義経や義仲などの敗残者に熱い思いを
寄せることになったのではないかと推測できる。」

「義仲忌」が毎年1月第3日曜日、5月第2土曜日には、
翁堂に鎮座する芭蕉翁の像に白扇を奉納する「奉扇会」、
芭蕉翁の忌日「時雨忌」は、11月の第2土曜日に営まれています。

松尾芭蕉終焉の地 (南御堂) 
義仲寺2(芭蕉) 義仲寺3(芭蕉以後)  義仲寺4(巴塚・山吹供養塚)
                           

『アクセス』
「義仲寺」大津市馬場1丁目5-12

京阪電車石山坂本線「膳所駅」または
JR膳所駅下車徒歩約10
3月から10月:9:00から17:00 11月から2月:9:00から16:00
定休日月曜日(祝日除く) ※4・5・9・10・11月の月曜日は無休

『参考資料』
田中善信「芭蕉」中公新書 「松尾芭蕉」桜楓社 
「おくのほそ道大全」笠間書院 太田亮「姓氏家系大辞典」角川書店
魚住孝至「芭蕉 最後の一句」筑摩書房 「滋賀県の地名」平凡社
「滋賀県の歴史散歩」(上)山川出版社 光田和伸「芭蕉めざめる」青草書房 

 高木蒼梧「義仲寺と蝶夢」義仲寺史蹟保存会 「芭蕉翁 大津来遊のしるべ」義仲寺
長谷川櫂「奥の細道をよむ」ちくま新書 「平家物語を歩く」講談社



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