平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




宇治川の中州の橘島に「宇治川先陣之碑」が建っています。


『平家物語』が語る宇治川合戦は二つあります。
一つは治承4年(1180)5月三井寺から南都へ向かう途中、平等院へ入った
以仁王・頼政を追ってきた平氏軍が宇治川を挟んで対峙した橋合戦です。
橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
もう一つは、平家都落ち後、京都に入った木曽義仲の傍若無人の
振る舞いを嫌った後白河法皇が源頼朝に軍派遣を要請しての
関東軍と義仲軍、源氏同士の間で展開された合戦です。
先陣争いは、義経勢の中の梶原源太景季と佐々木四郎高綱の争いでした。

頼朝の命で大軍を率いて木曽義仲追討に攻め上った鎌倉勢は
尾張国(愛知県)から二手に分かれ、大手(正面)は
頼朝の弟範頼を大将とし、総勢三万五千余騎が瀬田に到着しました。
搦手(背後)は義経を大将として、
畠山庄司重忠・梶原源太景季・佐々木四郎高綱らその勢二万五千余騎が
伊賀国(三重県)を超え、宇治橋の袂に押寄せました。

時は寿永3年(1184)1月も下旬、比良の高嶺・志賀の山・長良山、
山々の雪も消え、雪解けで増水した宇治川の水面には白波が立ち、
波が逆巻き、川霧が深く立ち込める夜明けのことです。

守る義仲勢は信濃の豪族仁科・高梨ら五百余騎が宇治橋の橋板を外し、
川底には乱杭を立て、その杭に太い網を張り、
綱には逆茂木(棘のある木の枝を逆さにして並べる)を
結びつけて待ち構えていました。

義経は激流を見つめこの水量では危険と淀・一口(いもあらい)へ
迂回しようか、それとも流れが収まるのを待とうかと思案していました。
すると弱冠二十一歳の畠山重忠が進み出て
瀬踏み(どこが浅いか深いか調べて先導する)をかってでます。
畠山一党500余騎くつばみを揃えて川に飛込もうとしたその時、
橘の小島より武者二騎が争うように駆け出てきました。

梶原源太景季は磨墨(するすみ)に、佐々木四郎高綱は
生食(いけずき・池月)に乗り、激しい先陣争いの始まりです。
出陣の際に頼朝から賜ったいずれ劣らぬ名馬です。

当時の馬の丈は前脚の先から垂直に肩の高さまでを測り、
四尺を標準とし
、それより一寸大きい馬を一寸(ひとき)といい、
生食は八寸(やき)とよばれた黒栗毛の並外れた大馬で、
人にも馬にも見境なく噛みつくことから生食となづけられたという。
景季の磨墨は太く逞しい黒馬でした。

梶原景季は佐々木高綱の一段(約11m)ばかり先を駆けて行きますが、
「腹帯(馬の腹にまわし掛け鞍を安定させる帯)が緩んでいるぞ。」という
高綱の言葉に騙され、あわてて腹帯を締める間に高綱はさっと宇治川の急流に
馬を乗り入れます。景季は騙されたとばかりすぐさま川に馬を乗り入れ
「佐々木殿、川底には大網が張ってあるから気をつけられよ。」と
勢い込んでいる高綱に注意します。
高綱は馬の足に引っかかった大網を重代の太刀で
切りさばきながら進み、一直線に流れを渡りきります。
こうして頼朝との約束を果たし「宇多天皇の九代の後胤、
佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱。宇治川の先陣ぞや。」と
大音声をあげて名乗り敵陣に突撃しました。

『平家物語』は高綱の本拠地は近江国の佐々木荘で、
琵琶湖から流れ出る瀬田川の下流の宇治川については詳しい上、
生食という天下一の名馬に乗っていたので
少しも流されることがなかったと語っています。

高綱が水中の大綱を切った太刀は、八幡太郎義家が用いていた名刀面影です。
源為義(頼朝の祖父)がこの太刀を佐々木秀義(高綱の父)に与え、
佐々木家代々に伝えられ高綱が先陣を遂げたので、
これを境に綱切と改名されました。
一方、梶原景季の乗った磨墨は川の中ほどから押流され、
はるか川下の岸に着いたのでした。

続いて畠山重忠は川を渡るうち、馬の額を深く射られ、途中から急流の中を
泳いで対岸に上ろうとした時、後ろから腰にすがりつく者がいます。
あまりに流れが速いので馬を流された烏帽子子(えぼしご)の大串重親です。
「いつもお前達は重忠を頼るのだから。怪我をするではないぞ。」と
岸に放り投げました。重親はすぐに起き上がると恥じ入る風もなく、
「武蔵国大串次郎重親、宇治川の徒歩(かち)立ちの先陣ぞや。」と
名乗ったので、敵も味方もこれを聞いてどっと笑ったということです。
もう一つの宇治川の先陣です。

武士が元服の時、烏帽子をかぶせて名を与える者を烏帽子親、
元服した若者をその烏帽子親からは烏帽子子という。
烏帽子親には一族や主人筋の有力者に頼みます。武蔵七党の一つ、
横山党に属する大串重親は重忠直属の部下ではありませんが、
親分と仰ぐ関係にあったと思われ、奥州合戦にも重忠に従って出陣しています

畠山重忠といえば思いやりが深く、怪力勇猛で知られています。
一の谷合戦の際、義経配下に加わっていた重忠は、平家背後の急峻な崖から
平家の陣を目指して急襲。この時、愛馬が可哀想だと、持ち前の大力を発揮して
馬を担いで下りたという逸話が『源平盛衰記』に残っています。

渡河に成功した義経軍は一挙に京都に入り、
瀬田を突破した範頼軍も京都に迫りました。

宇治川先陣之碑
平等院から橘橋を渡ると中州があり、宇治公園になっています。
公園は橘島ともいわれ、大きな桜の木の下に
「宇治川先陣之碑」と刻んだ自然石の碑がたっています。

先陣争いの場面で佐々木高綱と梶原景季が躍り出たという
橘の小島は、
当時と地形が変わっているためその位置は明らかではありませんが、

現在の宇治橋西岸の下流にあったと推察されています。
また当時の宇治橋は、
今より200m程上流の
位置にあったと考えられています。






宇治橋は大和、近江、京都を結ぶ要衝の地にあり、
幾度も合戦の舞台となりました。
『平家物語』には義経軍と義仲軍の合戦だけでなく、
源頼政の橋合戦のことも描かれています。
宇治川は上流の天ヶ瀬ダムができて水量を調節しているので、
流れは緩やかになりましたが、かつては急流で知られ、
水害や戦乱によって宇治橋はしばしば破損、流失しました。


南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、
ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。

頼朝から名馬を賜る佐々木高綱・梶原景季と
宇治川に到着するまでの両者の逸話をご覧ください。
宇治川の先陣争い(佐々木高綱・梶原景季)  
佐々木氏発祥の地に建つ 沙沙貴神社(近江源氏佐々木氏) 
『アクセス』 
「宇治橋」京阪宇治線宇治駅下車徒歩1分(宇治駅で下りると右手にあります。)
JR奈良線宇治駅下車徒歩約10分
『参考資料』
新潮日本古典集成「平家物語」(下)新潮社 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
水原一「新定源平盛衰記」(5)新人物往来社 斉藤幸雄「宇治川歴史散歩」勉誠出版

竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂 別冊太陽「平家物語絵巻」平凡社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版 「京都府の地名」平凡社

 

 

 



コメント ( 2 ) | Trackback (  )