保元の乱後、政治家として華々しい活躍をした信西(藤原通憲)も 平治の乱(1159)では、宇治田原の山中で命を落とし、 その首が大路を渡され西獄門の樹上にさらされました。
家柄の低い家に生まれた信西が後白河天皇の近臣となり、 政治の中枢に身をおくことになった経緯や保元の乱で 協力して崇徳上皇方を倒したはずの源氏と平氏がなぜ対立し、 平治の乱で敵味方に分かれて戦ったのか そのきっかけを見てみたいと思います。
信西(1106~59)の家系は、藤原氏傍流の南家出身で 曽祖父、祖父とも文章博士・大学頭をつとめる代々学者の家柄です。 父の文章生(もんじょうせい)蔵人実兼が通憲7歳の時、 28歳の若さで急死したため、祖父藤原季綱(すえつな)のいとこで 富裕な受領高階(たかしな)経敏の養子となり姓を高階に改めます。
待賢門院の判官代さらに鳥羽院の判官代となり、院の側近に のし上がり、政務の中枢に参画するようになりました。 信西は天文・仏教・詩文さらに管弦などあらゆる道に秀で 当時並ぶ者のない学者でした。 鳥羽院の傍近くに仕えることができたのは、 彼の博識多才のためといいます。
しかし、仕えた鳥羽院の近臣の家柄は固定化していたので、 折角の才能を発揮する機会がなく出世は遅れ、 官位をあげてほしいために出家を公言します。 この抗議が実ったのか、翌年、院判官代でしかなかった 通憲(みちのり)は少納言となり藤原氏に復姓しますが、 これ以上の地位は望めぬと思ったのでしょう。 半年後の天養元年(1144)、出世をあきらめ出家し信西と称します。
この頃、左大臣藤原頼長に出家の動機として自分の才能を 生かすことのできない政界への恨みを語っています。 若いころの頼長は、信西を非常に尊敬し学問の師と仰いでいたのですが、 保元の乱では二人は敵味方にわかれることになります。
出家後の活動は目覚しく、鳥羽院の命で歴史書『本朝世紀』の編纂、 大悲山峯定寺の由来・沿革を著した『大悲山縁起』を完成させたり、 『日本書紀』の注釈書を著し学者として充実した日々を送っています。
やがて後妻に雅仁親王(後白河)の乳母藤原朝子(紀伊局)を 迎えたことから、信西の立場は大きく変わり、 政界の中心人物になっていきます。 当時は乳母の夫も乳母夫(めのと)とよばれ近臣として政治的権力を 振るう者が多く、信西も雅仁親王の後見となります。
鳥羽院の晩年、その寵が近衛天皇を生んだ美福門院に傾き、 不遇な待賢門院が今様や様々な雑芸に楽しみを見つけたのを 間近にみていた雅仁親王は、何となく影響を受けたのでしょう。 好きな今様を一日中うたって気楽に過ごし、 「遊びが派手で即位すべき器でない」と父の鳥羽院を嘆かせています。 このような雅仁親王の即位を画策し、実現させたのが信西です。
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