
鶴林山大御堂寺(通称野間大坊)には、源義朝の墓があります。
平治元年(1159)12月末、平治の乱に敗れた源義朝は東国へ逃れる途中、
義朝の乳母子、鎌田政家(正清改名)の勧めで家人(けにん)の
長田忠致(おさだただむね)を頼り、知多半島の野間庄
(現、愛知県知多郡美浜町野間)に向かいました。
野間の豪族長田忠致は、鎌田政家の妻の父です。
忠致は義朝や婿の政家をさまざまにもてなした後、恩賞にあずかろうと
年が明けた正月3日に入浴中の義朝を謀殺しました。
寺伝によると、大御堂寺の創建は、天武天皇(673―86)の時代に始まり、
聖武天皇(723―49)の時、行基が開山となりました。
その後、白河天皇の勅願寺として承暦年間(1077―81)に再建され
大御堂寺と命名されました。

義朝の首を洗ったという門前の血の池

建久元年(1190)、父の法要に伴い頼朝によって建てられた大門

寺の門前には義朝の首を洗ったと伝える血の池、約六万平方メートルの広大な
境内には、大門、鐘楼堂、源義朝御廟、寺僧がたてたという平判官康頼卿墓、
大御堂寺本堂、野間大坊本殿などがあります。

大御堂寺本堂 本尊は阿弥陀三尊像


木太刀で埋まる義朝の墓。
湯殿にだましいれて湯かたびら一枚の義朝に大力の男が組みつき、
二人の男が左右から脇腹を突きました。義朝38歳、無念の最期
「ここに一ふりの木太刀ありせば….」
非業の最期を遂げた義朝の悲痛な叫び声が聞こえてくるようです。
義朝の無念を参拝者が捧げ続けている木太刀の山


池禅尼の塚
頼朝は父義朝の廟所に、自身の命乞いをしてくれた池禅尼の塚を築きました。

鎌田政家並に妻平氏の墓
鎌田政家(正清)は酒宴の席で長田にだまし討ちにされ、
政家の妻は夫の刀を胸にあてて自害しました。
正清は祖父助道以来の源氏重代の家臣で、義朝の乳母子として近侍し、
平治の乱の際、藤原信頼が行った臨時の除目で
左兵衛尉に任じられ、政家と改名しました。
磐田市の鎌田政家(正清)の墓

織田信孝の墓

梵鐘は建長2年の銘があり、国重要文化財に指定されています。

荒れ果てていた義朝の墓を整備した平判官康頼卿の墓
平康頼の墓(野間大坊大御堂寺 )
義朝が謀殺されて30年後の建久元年(1190)十月、天下を平定した源頼朝は
上洛の途次、野間庄に立ち寄り父の廟所に詣で、鎌田正清(政家)の墓、
池禅尼の塚を建て七堂伽藍を造営し大法会を催しました。
頼朝の庇護を受けた当寺は大いに栄え、最盛期には大坊・南ノ坊(現・安養院)
蓮花坊・宝乗坊(現・密蔵院)をはじめ一山十四坊を擁する大寺でした。
寺はたびたびの兵火で焼けますが、秀吉、家康の寄進を受けて発展します。
中興の長円が家康の母方の従弟という関係で、
以後大御堂寺の住職は代々水野氏の世襲となります。
初代名古屋城主徳川義直は伽藍を修復し、
幕府御用絵師狩野探幽に命じて義朝最期の図や
大法会の図を描かせ自ら絵解きを記して寄進します。明治の廃仏毀釈後、
寺は本堂・大坊と安養院、密蔵院、法山寺を残すだけになりました。


野間大坊本殿
秀吉の晩年の居城「伏見山城」の一部を寛永年間(1624~43)に移築したもの。
源義朝最期の地野間(湯殿跡・法山寺)
寺の近くには長田のはりつけの松があります。
野間はりつけの松・長田忠致屋敷跡
織田信孝 (安養院・密蔵院)
『アクセス』
「大御堂寺」愛知県知多郡美浜町野間東畠50
名鉄知多新線野間駅下車徒歩10分
『参考資料』
「愛知県の地名」平凡社 圭室文雄編「日本名刹大事典」雄山閣出版
金岡秀友編「古寺名刹大辞典」東京堂出版
「日本名所図会」(東海の巻)角川書店 永原慶二・貴志正造「吾妻鏡」(第十)新人物往来社
五味文彦・本郷和人編「現代語訳・吾妻鏡」(3)吉川弘文館
源氏の棟梁・源頼朝の父を祀ったお寺で頼朝の庇護のもと、大いに栄え、その後も秀吉、家康の寄進を受けて発展とありますからこの地方一の大寺だったのでしょうね。
だからこそ、信孝が押し込められ、自害する場所に選ばれたのでしょうか。
歴史上の英雄が世に出て行く裏には、出自が貴くて野心だけは人以上でも才能が足らず、名を残せずに終わる人も沢山。
色々な歴史があるものですね。
徳川家は源氏の末裔と称したから尾張藩主も手厚い保護をしたでしょう。
廃仏毀釈の嵐で荒廃しなければよかったのにと思います。
ここで平康頼が出てきましたね。
在任中に尾張国に赴いた時、義朝の墓は弔う人もなく荒れていたので堂を建て六名の僧に不断念仏を唱えさせた…その功によって頼朝から所領を貰った…だったかな?
平康頼を詳しく調べておられる方がお二人おられましたね。読ませて貰って克明なルーツ探しにびっくりしました。
義朝の最期を先生から聞くそうです。
寺伝に弘法大師が諸国行脚の際、大御堂寺に杖をとどめて
一千座の護摩を焚いたとあり、そのご縁でしょうか
「知多四国八十八箇所」大御堂寺50番、野間大坊51番
密蔵院52番、安養院53番、法山寺55番の札所になっています。
大御堂寺の駐車場には、巡礼者用のバスが止まり広い境内では
般若心経を唱える巡礼者を何人も見かけました。
歩いて巡拝される人のための旅館だと思いますが、
大御堂寺の付近には三軒の旅館があり驚きました。
このようなことから大御堂寺は愛知県では
かなり有名なお寺でしょう。
仰るように徳川家のお陰で大御堂寺をはじめ源氏に
関係するお寺が寄進を受け保護されていますね。
半年くらい前になるでしょうか。
安養院がNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア?」で取り上げられ
ご住職が血染めの掛け軸を見せてくださいました。
自害したときの血が、床の間にかけてあった軸に
飛び散ったものでしょうが、信孝の激しい怒りを物語っているようでした。
信孝はしょせん根回し上手な秀吉にはかなわなかったのでしょう。
平康頼のご子孫tairaさま、その家人のご子孫木邑さまが
ご教示下さり平康頼についてさまざまなことが分かりました。
木邑さまが平康頼についてWikipediaに詳しくお書きになっていて
同じことを書いても面白くないので、次回は吾妻鏡に書かれている
「在任中に尾張国に赴いた時、義朝の墓は弔う人もなく
荒れていたので堂を建て六名の僧に不断念仏を唱えさせた…
その功によって頼朝から所領を貰った…」の処を読み、
別の説をとなえる研究者の本の中から抜粋して記事にしたいと思います。