平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




安養院は、宝暦五年(1755)12石余を大御堂寺から分与されて現名に改称し、
明治になると大御堂寺の三院が安養院に合併しました。

織田信長の三男信孝は、兄信雄(のぶかつ)より20日余早く生まれましたが、
信雄の母方の家柄が上だったため三男とされたといわれています。
本能寺の変後、信孝は大坂で明智光秀の婿を殺害し、続いて光秀討伐のため
攻め上る秀吉軍と摂津富田で落ちあい山崎で光秀軍を破るなど活躍し、
兄信雄と家督を争いますが秀吉によって退けられ、
信長の嫡男信忠の子・
三法師が後継に決まりました。
信孝は三法師の後見役として
岐阜城と美濃国を与えられますが、
柴田勝家と手を結び秀吉と争います。

しかし勝家は賤ヶ岳の戦いに破れて越前北庄で自害したので、
後ろ盾を失った
信孝は兄信雄の勧めに従い岐阜城を明け渡し、
野間内海に落ち大御堂寺に送られて
安養院で自害しました。
寺には信孝が切腹した時に腸を投げつけたという

血染めの掛け軸(古画の墨梅)が秘蔵されています。



信孝辞世の句
♪昔より主を討つ身(内海)の野間なれば報いを待てや羽柴筑前

「昔より主を討つ身」とは長田父子が主の義朝を
野間内海庄で殺害したことを述べています。
織田信孝の墓は、大御堂寺の源義朝の廟所にあります。
源義朝の墓(大御堂寺) 
 

密蔵院の裏山には、長田忠致の磔の松があります。


『アクセス』
「安養院」知多郡美浜町野間字東畠90-1 大御堂寺から徒歩2、3分
「密蔵院」知多郡美浜町野間字松下105  大御堂寺から徒歩5分

『参考資料』
「愛知県の地名」平凡社  圭室文雄編「日本名刹大事典」雄山閣出版 
金岡秀友編「古寺名刹大辞典」東京堂出版 「戦国武将合戦事典」吉川弘文館
 
 
 

 

 

 



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