昨日から暑さを感じるほどの日になった。公園では子どもたちが大声を上げて遊んでいる。街路樹のケヤキも葉を伸ばしている。先日まで咲いていたサクラも今ではすっかり葉サクラに変わった。新緑が青空に美しく輝いている。公園の子どもたちが元気なのはこの陽気のせいだろう。思いっきり声を上げ、思いっきり走り回り、じっとしていることがない。
夜、久し振りに外に出ると、やはり昼間の陽気さがまだ残っていた。コンビニや駅や公園には半分大人になりかけた子どもたちがたむろしている。奇声をあげたり、戯れたりする姿は変わらないけれど、半分大人だけになんとなく気味悪い雰囲気がある。京都府亀岡市で登校中の子どもたちの列に車ごとぶつかって行った事件があった。
この少年らは18歳で、夜通し運転していて、「居眠り運転だった」という。死んだ子どもの祖父が「被害者の名前は出るのに、加害者の名前は出ない。やりきれない気持ちだ。復讐してやりたい」と言っていたけれど、そういう気持ちになっても当然な気がする。運転していた子どもは無免許で、その父親は「謝るしかない」と述べていた。
その前には京都市の繁華街で、交差点にいた何人もの人を跳ねるひき逃げ事件があった。運転者はてんかんの持病がある若者だった。東京都八王子市のバス運転手を刃物で刺したのは中学3年生の男子生徒だった。事件を起こす直前、所属していた運動部の顧問に犯行をほのめかす電話をかけていた。生徒は「バスジャックしたら電話するから」と言って切ったという。
この3つの事件に共通性はないと思うし、共通性を見つけて論評するだけの力もない。私が言えるのは、何だか本当に恐いことが多いということ。自分では気をつけて歩いていても、あるいは安全運転に心がけていても、いつどこから暴走運転の車が飛び込んでくるか分からない。正しいことをしている人は助かるというわけでもなく、災難はいつどこから降りかかってくるのか分からない。
そんな暗い気持ちで新聞を読んでいたら、敦賀原発直下に活断層があるという。敦賀で原発事故が起きれば、風に乗って滋賀県、岐阜県の南部、愛知県の西部は放射能の影響を確実に受ける。野田内閣は原発稼動に必死になっているが、最終処理の出来ない原発を速やかに止め、処理の方法を全力で確立しなければ、SF映画ではないけれど、私たち人類は滅びることになるだろう。
人が幸せを求めて急速に科学を発展させてきたけれど、登校途中の子どもたちの命さえ救うことが出来ない現実にある。ぶつからない車が開発されているそうだけれど、急がなくてもいい社会や怒りに燃えなくてもすむ社会を開発することは無理なのだろうか。私は人間なら出来ると思っているのだが‥。