友々素敵

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石川啄木と尾崎豊の死

2012年04月17日 21時33分48秒 | Weblog

 石川啄木は1912年4月13日、肺結核のためにこの世を去った。わずか、26年の生であったが、その生涯は実に波乱に満ちている。お寺の子どもであったけれど、その家庭はどこか複雑である。子どもの頃は優秀で、盛岡中学へ進級し、14歳の時に盛岡女学校の生徒、堀合節子を知る。15歳となり成績は不振、その反面で文学を志すようになり、岩手日報に短歌を発表し、友人らと短歌会を結成する。

 17歳の時、中退して文学で身を立てようと上京する。与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねたり、雑誌の編集者を希望して就職しようとするが失敗して故郷へ戻る。アメリカの女流文学者の詩集を研究したり、日露戦争論を「岩手日報」に掲載したり、明星派の新進詩人として詩集出版に奔走したりして、再び上京する。けれども、父親が寺のお金を滞納し、懲戒処分を受けたことから、生活は暗転するが、たしかこの年に啄木は節子と結婚している。19歳の時である。

 22歳の時、北海道で新生活を開こうとするが、どこも長続きしなかった。23歳、創作生活を目指して上京する。これを助けたのは金田一京助で、借金を繰り返す啄木を「石川五右衛門の子孫ではないか」と書いている。啄木の小説は全く評価されなかったようだ。その苦悩のはけ口が短歌だったのかも知れない。啄木の生活はすさまじいものがある。一家の生活を支えるには余りにも貧困だった。にもかかわらず、手に入ったお金を酒や女に使ってしまう。ひもじくて泣く子どもに与える乳も出ず、沢庵をしゃぶらせて一時をしのぐ生活だったと節子は書いている。

 啄木の身勝手な行動は、ローマ字日記を読むとよく分かる。節子はローマ字が読めなかったので、読まれて困るような女郎買いなどが書かれている。それでも、啄木はやはり天才だと思う。私は啄木の短歌を詠むまでは、短歌はまどろっこしい古語ばかりで全く面白くないと思っていた。けれど、啄木の短歌は違う。生活がある主張がある、そう思った。私が最初に短歌に興味を抱いたのは啄木の歌で、日常のままを口ずさんでいいのだと教えてくれたのは俵万智さんの歌だった。

 尾崎豊が亡くなったのは1992年4月25日で、尾崎豊も啄木と同じ26歳だった。私は尾崎豊を石川啄木ほどには知らない。追悼か何かの番組で、ちらっと見たり聞いたりしたに過ぎないが、私がもし、尾崎豊と同年代か年下なら、間違いなく彼のファンになっていたと思う。彼の詩は痛いほど分かる。凄い歌詞を書く奴だなと感心した。自殺は当然の帰結だろうとも思った。そうすることで彼は完結した。天才はいつも孤独で悲しい。

 貧しさから一歩も抜け出せなかった啄木の一家は、次々と結核で死んでいった。啄木の長男はわずか3週間あまりでこの世を去った。啄木の母親は啄木の死の直前の3月に結核で亡くなっている。妻の節子は翌年に同じく結核で亡くなった。もし、一家にお金があったなら、こんなにも悲惨な最期にはならなかっただろう。けれど、もしそうであったら、啄木の歌はやはり変わっていただろう。何が良くて、何が悪いのか、軽々しくは判断すべきではない。

コメント (1)
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