久し振りに巨人・阪神をテレビ観戦した。ところが何ということか、3時間20分が過ぎてもまだ決着が付かない。9回の裏、巨人の攻撃の時、ノーアウト満塁だった。これはもう絶対に巨人の勝ちだと思ったが、点が入らなかった。その前にもこんな同じような場面があり、なぜか見ている私の胃が緊張してくる。たかが野球だ、しかもプロ野球だ、好ゲームが展開されているのだから、楽しんで見ていればいいのに、どうしてこうも変な反応をしてしまうか。
今朝も葬儀があり、明日もまた葬儀があるが、明日は大和塾の講演会の会場取りのために出られないから、通夜には参加しようと思っている。不幸な事故だったのだから、葬儀に参加すべきなのか迷う。友人が運転していた車が電柱に衝突して、後部座席にいた友人の長男の嫁が亡くなった。友人も重傷を負い入院しているが、こんな不幸なことはない。友人の家族のことを思うと、いたたまれない気持ちになる。
人はどんな気持ちで葬儀に参列するのだろう。お世話になった、あるいは親しくお付き合いが続いた、ありがとう、そんな気持ちから最後に、やはり見送りたいというのが正直な気持ちだろう。見送ってあげたところで、何かが変わるわけではないし、あくまでも自分の気持ちがそうしたいということに過ぎない。長い読経を聞きながら、故人と過ごした一時を思い出し、ありがとうございましたと焼香する。正面には遺影が掲げられているから、より懐かしい気がする。
残された家族にしてみれば、参列者が多いということはそれだけ故人につながる人が多いことの表われであり、「徳」の多い人ということになる。たくさんの人々に見送られ、葬儀が終わり、年月が流れてしまえば、本当につながっていた人以外からは忘れられてしまう。血のつながっている親族であっても、孫の代では記憶も薄くなる。人はいつまでも亡くなった人のことまで考えていられないのだ。
私は、葬儀は儀式であるから、私の葬式はもっと違ったものにしたいと思っている。仏教もキリスト教も信仰できなかった私らしい形にしたい。年賀状を交換している友人・知人には、必ずハガキか手紙で知らせる。その文面も作っておこうと思うが、まだ準備が出来ていない。「そんな嫌なことを考えて」と、カミさんは言うだろうけれど、そんなことを考えてもよい歳になってしまった。82歳でひとり暮らしをしている姉をまず見送ってあげたい。姉もそれを心配している。