恩義を受けた人が亡くなった。私が地域新聞を作ろうと思い立ち、この地域の有力者である前首長を訪ねて回った。ふたりとも、私を気に入ってくれて、後ろ盾になることを約束してくれた。そればかりか、ひとりは会社の広告を出してあげるとも言ってくださった。新聞のスタイルが決まり、広告集めの目処が立った。「それで配布はどうするの?」と言われて、紹介されたのが亡くなった方だった。
私が新聞の趣旨と張り合わせて作った見本を見せて、「こういう新聞です」と説明すると、即座に「一緒にやりましょう。あなたは編集をやり、会社の経営は私がやりましょう」と言ってくれた。こんなにとんとん拍子にいっていいのかと思うほど順調だった。「資本金はどれくらい要りますか?」と聞かれて、「カメラも車も持っていますから、最初の印刷代など含めても百万円もあれば充分です」と答える。
「分かりました。その金は用意しましょう」と言われる。それでは余りに申し訳ない。「半分は私も出します」と言うと、「いやいや、あなたはここまで準備して来たのだから、それがあなたの資本ですよ」と言われる。世の中にはこんなにも太っ腹で親切な人がいるのだと大感激した。自宅を事務所にして5年間、広告を集め、取材して記事を書き、割付をして発行し、集金をし、また取材と広告集めに回る、それをひとりでやった。
ある時、名古屋錦のクラブに連れて行ってもらったことがある。お酒はとても強い。歌を聞いたけれど、素人は思えないほどうまい。ナット・キング・コールが歌っているのかと思うほどだった。学生の時に、進駐軍を相手にバンドを組んでいたと言う。必ず初めに笑わせて、ぐっと人々を引き付ける、人前での話はとてもうまかった。それに何でもよく知っていた。時々コラムを書いてもらったけれど、文章もピカイチだった。
人の出会いはどこにあるか、わからない。この方に出会っていなかったなら、私の今日はなかった。人生を左右する出会いとはこういうものだろう。葬儀はまるで同窓会のようで、大勢の知り合いに会うことができた。「お元気ですか?」「久し振りです」「今は何をやってみえますか?」「変わりませんね」「会いたかったです」「活躍されていますね」。様々な近況報告やねぎらいの言葉が行き交った。
私としては、市長となってお見送りしたかった。もちろん、首長選挙に出馬したいと言ったことが袂を分けることになったのだから、あの世でもまだ怒っているだろうけれど、そうなっていればきっと心の中ではニヤリとしてくれたと思う。どこの馬の骨とも分からない私を買ってくれたのだから、絶対に見る目のある人だと、私は勝手にも思っている。一回り上の申年、そんなに時間をかけずに後を追うことになるだろう。その時は握手をさせてもらいますよ。