蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

不幸自慢に完敗

2017-12-30 | わたし
苦労話を書く人がいる。
昭和の小説のよう。
リアリティは、ずっしり。
気の毒で悲しい、自分の生い立ちなのだから。
若い頃は気づかなかったが、母に感謝、妻に感謝、、、懺悔の毎日だそうだ。
年末に仏壇を掃除していて、彼の頭をよぎる思い。
毎日のように夢に出てきたお母さんも、懺悔するようになってから、夢に出なくなったとか。

わたしは、不幸自慢のネタが無いのが弱みだ。
「コンプレックスだ」とまで書くと、やりすぎ。
弱み程度。
幸せ自慢は、嫌われるだけ。
そっとオブラートに包んだつもりでも、強力な臭いを発する。
不幸自慢は出来ないが、幸せ自慢を隠し通せることも出来ない。

しかし、まあ、絵に描いたような、不幸なストーリーがあるものだ。(前述の人のように)
絵になる、小説になる、映画になる。

それに引き換え、幸せ自慢は、よほど鋭い視点でも入れない限り、嫌われるだけ。
わたしも、不幸切り口も出来ないわけではないのだが、言いたくない、公表したくない。
故に、文章にはしない。
文章にするのは、自分が書きたいことだけ。
この、自己チューに実に誠実に素直に実直に、わたしのペン(最新は、ペンではなく、右、人差し指)は、わたしの、しもべとなり、執事となり、わたしを助けてくれる。
それに救われ、癒され、友達を必要としない。
わたしの友達は、わたしであり、最大の理解者は、わたしである。
(・・・のはずなのだが、娘たちや、わたしを知る人は、びたっと、わたしの中味の一部を言い当てるので、多少、自分を漏えいしているようだ)

わたしは、書くことを趣味として、自己完結しているだけの、人生を降り始めた、たんなる壮年女性。
オカネの要らない趣味なので、ケチなわたしにはもってこいである。
スマホの充電器さえあればよい。
嘘八百も書けるが、たまたま、わたしは事実を捻じ曲げた作り事を書いて自己逃避するタイプではなく、答えを自分に求めるタイプ。
なので、結論を引き出すためには、できるだけ事実を検証しなければ、意味がない。
と、検証ゴッコも、大好きな(おままごとゴッコ、お人形ゴッコ同様に)、やはり、たんなるヒマ人である。

というわけで、不幸自慢には、対抗できないが、対抗する気がないので、別に問題はない。
だから、それがどうした?の、お話でした。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ