蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ボケ元年

2017-12-15 | わたし
今年はわたしのボケ元年だった。
4月ぐらいに、大きな身体的・自覚症状があり、夏にはもっと大きな脳内・自覚症状があった。
このまま行くと、わたしは自然に老いるコースではなく、病気、発病が早い「老い早取りコース」を迎えそうだと覚悟した。

生まれて初めて、トラウマなるものも体験した。
ボケ発症と時期が重なるので、ひょっとすると、トラウマによるストレスが一時的にボケを誘発した?
そうであって欲しい。そう思いたい。

逆はないか?
検証してみる。
ボケを発症したせいで、普通ならなんともないところを大騒ぎして、トラウマだということになった。

(言えることは、
自分の非を認めない、非の自覚がない、その分、相手を傷つける人、傷つけたことにも自覚がない人には近寄らないこと)

まあ、どっちにしても、身心ともに節目を迎えたようだ。
還暦って、やはり人生の大きな区切りである。
次代にバトンタッチするまでは、頑張ってサポートしよう、と思っていたが、サポートなんか、うがった思い上がりの見方。
邪魔にならないよう、重荷にならないよう、最後列から付いていこう。
次第に速度が遅すぎ列から外れ、うずくまることだろう。
その時は、わたしを切り離して、若い世代は前進して欲しい。

なんて、またまた30年ぐらい早い遺言になった。
でも、急に老化を実感し、また、次世代が活躍してくれるのを見て、そう思うのだから仕方ない。

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劣等感の塊を丸呑みしたまま、毒を他人に向ける人

2017-12-14 | 趣味
誰にでも劣等感はある。
もし劣等感が無い人がいたら、その考え方自体に劣等感を持ったほうがいい。
現実を全く見ていない、井の中の蛙だからだ。
たとえ、トップであっても未来永劫には続かない。
○○は永久不滅だ、と豪語した人もいるが。
あの時がピークだったと検証の材料にされるだけだ。
バブルも、はじけるからバブルなのだ。

さて、
劣等感には色んなタイプがある。
現実を把握し、モチベーションのバネにする人。
諦める人。
人の足まで引っ張り下ろす人。
頭を切り替える人。

一番難儀なのは、そのポジションから抜けられる見通しがない場合。
抜けたくても抜けられない。
しかも事実はよく掌握している。
気持ちも切り替えられず執着する。
そういう人には、事実を知らないことが「最大の不幸」から免れる方法。
しかし、知ってしまったとしたら、それ自体が不幸である。
今更元には戻れない。

そういう人は連帯すると強いパワーを発揮するのかも知れない。
歴史を紐解けば、大きなうねりを生じさせる。

今の世の中では?
政治の話になると、わたしは専門外。
専門家に任せる。

長年、組織で冷遇された恨みを抱え、怨念を蛇のごとく丸呑みにし、じわりじわりと自分より下の者をいびる。
性格のねじ曲がった人は、存在する。
外面では判断できないので、どんな人に出会っても、穏やかな菩薩顔の下に隠された夜叉を感じたら、いつでも撤退できるよう、荷物をまとめてスタンバイしておくに限る。
ニュートラルな可動ポジションをキープする。
走るのが速い、逃げ足が速い人は、こういう時に長所を発揮できる。
足は鍛えておかねば。

せっかくの撒いた塩、自分の傷口に擦り込むことになるような行動や考えはしたくない。

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塩、塩、塩。

2017-12-13 | 趣味
恐ろしき自宅(別SNSマイページ、日記コメント欄)。
鍵をかけていないので、暴漢でもフリーパス。
【蝶ブログは、大事にしているので(その割りには人の目を意識せず、気を使わず書き放題)、きちんと鍵かけてます】

一番、恐ろしいと思われる難所を最後にして、マシなほうから目を薄っすら開け、恐々読んだ。

ああ、糾弾されとるなあ、わたし。
恨み節のお返し、ボレー合戦。

しかも、わたしがわざと公にしていない、その箇所だけ抜いて書いている弱点を、
まあなんとわざわざ目立つところに取り上げて、書き足してあった。
なんとまあ、、、誰も知らない個人の弱点(そのリアル人物しか知らない)を意図的に公然と曝すか〜〜卑劣な人格丸出し。
そういう人なのだと、再確認。

最初のアッパーパンチを食らった後、最大難所にも行き、覚悟を決めて読んだ。

二人で共同作業なのに自己チューはけしからん、自分だけ守って、相手はほったらかしかよ、と、わめいておられた。

(本来、あんたはわたしを守り、与える立場であるのが望ましいけれど、それが無理なら五分五分でもしかたないと譲った。
にもかかわらず、あんたは自分の五分五分の義務もちゃんと出来ない力量不足の上に、出来ない責任をわたしに押し付け、攻撃してくるから、わたしは自分の身を自分で守っているだけなのに。
なんで攻撃してくるあんたの分まで守り、ケアせにゃいかん? 自分を守るのが精一杯。
自分が出来ない分を相手から奪おうにも、相手も出来ない。そうなら相手を攻撃してもいいのか?
お互い、不出来な者同士だから起きる相性の悪さだということになぜ気付かない?
お互いの不出来を認め合った上で、共同作業で補い合い協力し、努力を積み重ねていくならいざ知らず、スタート、基礎が噛み合っていない。砂上の城)

もうこれ以上かかわるのが、めんどくさいので、ごめんねーーと慇懃無礼に謝っておいた。
謝ってもまだ、公然と人前で殴りかかってくるなら、警察に誰かが通報してくれるんじゃなかろうか。
メールのやりとりではなく、公開された場のやりとりなので、さすがに相手も自分の評価に跳ね返るようなことは、あからさまにしない。

わたし。傷口パックリのまま、カットバンを貼って上から包帯をぐるぐる巻いた状態。
または、布生地の端を纏(まつ)る処理をせずに、切りっぱなしで製作を進める。
そんな感じて1日が経ち、傷口の手当をしない切られたまんまのコメントをもう一度見に行った。

そこでは最初、頭に血が上って見えなかった、更に嫌な部分を発見し、ほとほとこの人物は嫌な人だと、再認識した。
あんたはエライ!と大声で叫び、後ろを見ずに全力で走り去った、わたし。
王様の耳はロバの耳!!と叫ばれたとしても、聞こえないんだろう。
自分が不利になったり、都合の悪いことや、反省の材料になることは固く蓋をして触れない主義の人のようだ。
聞く前に耳をふさぐ。反射的、自動的に。
あるいは、耳に特殊な加工がされていて、普通の音は聞こえるが、不利情報は遮断されるのかも知れない。

わたしは、火に油は注がないタイプ。
火の上から(油以外)何でもいいから掛けて走り去る。
あんたは、エライ! あんたは、エライ! あんたは、エライ!
何回だって叫ぶ。
それで縁が切れるなら。
大嫌いな人と離れられるなら、なんだって平気だ。

アクセスブロックしたら手取り早いんだけど、一応、そういう手段は最後の最後に取っておく。
過激なやり方は、良い結果をもたらさない。トラブル回避の軟着陸。

塩、撒いとこう。

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恐怖

2017-12-11 | 趣味
あな恐ろしや。
大嫌いなトラウマの元凶人物Aさんが、わたしの別SNS日記にコメントを次々につけてくる。
しかも、わたしの日記はトラウマ人物Aさんへの恨み節を連綿と綴っている。
ある日記を皮切りに、しばらくAさんは姿を現さなくなったので、ここ幸いと、ドドド〜っと堰を切ったように書き立てた。
Aさんが読んでないと、踏んで。

こんな状態で、Aさんが書き込んだコメントが読みに行ける?
自宅が怖くて、帰宅できない人みたいになっている。
自宅の様子は、ちらちら外の監視カメラから覗き見ることが出来る。
が、怖い。
いったい、何を次から次へとコメントしているのだろう。

しばらく放置する予定である。
スマホの電池切れか、パソコンが壊れたことにしておこう。

また、こっそり隙間から中の様子を伺うつもり。
それにしても、恐怖である。

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若き日は、けしからん日々

2017-12-10 | 思い出
わたしは若い頃は、非常にけしからん人間だった。
人のものを欲しがるわけではないのだが、なぜか、親友の付き合っていた男性や夫とのトラブルで、親友を次々と失った。
何人も重なると、自分に欠点があるのではないかと気づかざるを得ない。

平気で人の彼とデートしたりするからだが、彼も同罪だと思う。
被害者は親友たち。だが、彼を引き止めておけない親友たちにも非はある。
ひょいっと女性が現れて、フラフラするようでは、絆が弱い。
あるいは、友人とわたし、女性としてのレベルが同程度で、どっちもいいなあと迷いが生じたか?
はたまた、二股かけるような男性の誠意のなさレベルが、友人と人間性レベルとしては同レベルだったか?
そういう人と友達だから、わたしも同レベルということか。類は友を呼ぶパターン。
それとも、若い頃にはありがちな、理性より本能が先走る動物としての特性か。

いずれにしても、わたしは友という友を完全に一掃(された)わけで、、、。
同性の友達は、それ以来、できない。
わたしが努力しないせいもある。
別に女性にしかわからない悩みとかを打ち明けてシェア、などということはないし。
懺悔室で神に打ち明ける?
そんな神は要らない。自分が神様だから、自分が赦す。
だいたい、わたしは人は信じていない。自分も信じていない。
と、傲慢というか、独りが大好きなので、どうってことはない。

が、このエピソードは、反省の材料になっていない。自慢の材料にもなっていない。
今日の自分が形成されたプロセスの一部に過ぎない。
開き直り、自己肯定。
少しは検証して修正した方が、人間として磨かれるのだろうけれど。
もう磨いたところで、別にそれがどうした?である。
何事も意識しなければ改善しないだろうが、改善を目的に意識するのではなく、自然な気付きで改善されるのが望ましい。(テキストなしで学習は、時間がかかり能率が悪いだろうが、自分自身がテキスト。時にはわたしの親が、反面教師のテキスト)
わたしは、順序にこだわる。

そういえば、3歳にして早くも客観の目を持つ、真ん中の孫、なんだか、順序にこだわる。
わけのわからない、本人独特のルールらしきものがあり、親やわたしに、めんどくさがられている。
三つ子の魂百まで、だろうか。

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まだキリリと痛い、トラウマの傷

2017-12-07 | 趣味
例の大嫌いなトラウマの主、Aさんから離脱して、やっと2カ月ちょっと。
だが、やはり、まだトラウマは、ちょいちょい顔を出す。

わたしを知る人は、トラウマの主、Aさんと踊っている一定期間、わたしはとてもやつれた顔をしていたという。
複数の人に指摘された。
やはり顔に出ていたのだろうか。

新しく踊る相手も暫定的、非固定的ではあるが、現れた。
が、やはり、トラウマはなかなか治らない。
悲しいとか、怒りとかではなく、傷ついた、という感覚である。
傷みによる痛み。
心の傷は見えにくい。

恨みが同時に湧き上がる。
相手はもう目の前にいないのに、湧き上がる気持ちに蓋は出来ない。

しかし、こういうパワハラはあちこちで起こっているのではないだろうか。
声を上げられない人が、弱虫というレッテルを貼られる。

トラウマの主、Aさんの、前のお相手の方、Bさんの日記を読む。
その人は、わたしよりは強気のようだった。
が、Bさんも、わたしと同じぐらいの期間でペアを解消していた。
「みなさんに、感謝します」と最後のあいさつメッセージが残されていた。
日記では、相手を恨んだり、罵ったりはしていない。
泣きごとではなく、「ペアを組むのは難しいことが多く、よい勉強になった」と書いてあった。
理知的な人である。

が、リアルな人々ばかりの中ではホンネや、実際のこと、想いは書けないだろうから、さらっと表現してあった。
わたしは、その行間を読み込んだ。

わたしのタイムスケジュールと、その人のタイムスケジュールは、ほぼ同じだった。
場所、登場人物、行動も同じ。
不思議な気がした。

トラウマの主、Aさんは、相手をBさんからわたしに替えただけで、まるで同じことをしている。
前の女性、Bさんも、わたしも、良い勉強になった。
わたしは、みなさんに感謝、とまではいかないが。
そうなるには、わたしは我慢しすぎていた。

一旦、トラウマになると、なかなか元には戻れないと思った。

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世界の地中に向かって叫ぶ

2017-12-05 | わたし
わたしの昨日の記事、世界的な流れと正反対だということに、今朝、気づいた。

いいね!で、世界中に、発信!
政治や思想も、悲惨な事実や事件も拡散。
あっと言う間に広がり、「うねり」となる。
遠心力の中心が、世界中の各個人にある。

それの内向き、真逆パターン。
遠心力の反対は、なんというのだろう?
求心力?

違う。
地面に穴を掘って叫ぶ。
???

降りる駅になりました。
結論は持ち越しです。

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自分に眠気

2017-12-04 | 日々のこと
いつも行きつけの別SNS。
気に入った特定の人をお気に入り登録するシステムがあり、お気に入りの人の日記がアップされると、随時、自動的に知らせてくる。
最近、わたしをお気に入り登録する人がポツリポツリと現れ、コメントも、新しい人からもらうようになった。
実はそれは、わたしにとっては重苦しいのだ。
やりにくくなった。

わたしは、好き勝手なことをぼやく、かなわん人という位置付けが気に入っている。
しょうもないわたしのぼやきの度に、相手に強制的に知らせ、かつ、相手からコメントをいただくのは、お手数かけて申し訳なさすぎる。

ほんとうに、しょうもないことを書いて、一人でウジウジ遊んでいるだけなので、どうぞ、お手を止めずに読み流してください。
でないと気軽にアップできなくなる。

大したことでもないことを褒めていただいたりすると、身の置き場がなくなる。
これは、謙遜でも裏自慢でもなく、偽らざるホンネである。

そう言えば、だいぶん前に、仕事のクライアント社長さんが、そんなことをおっしゃっていた。
わたしが褒めると、「お尻がモゾ痒くて快適ではない」と不快顔だった。
あの社長は、熱血、直球ストレートの性格、お人柄で、かなりユニークな人だった。
(が、その会社は問題ありで、後に取引停止になった)

と話は逸れているが、わたしは、褒められても、ただただ嬉しいかというと、そうでもない場合があるということだ。
可愛げなくて、すみません。

わたしには、少し先が見えてしまうのだ。
やがて、過大評価だったり、相入れない部分が出てきたり、飽きたり、で、熱は冷める。
ぱーっと一気に短期間で押し寄せる人(もの)には、あまり期待しない。
むしろ、警戒する。
赤の他人というものは、後々など考えず、フラフラと、その場その場で関わってくる。
それはそれで、一期一会の良さもあるが。
しかし、その時限りである。
なにごとも一長一短。

まあ、それはそれとして。
わたしは益々、最近は内に、こもっている。
内向的な性格に拍車がかかっている。
「火花」の著者、又吉直樹氏が言っていること、一つ一つに納得する。
あの人もそうとう受け入れられなかったことだろう。
でも今は違うようだ。
その状態を本人は良く思っているのだろうか。

多くの人に、わかってもらいたい、共感してもらいたい、思いをシェアしたい、と、わたしの場合はあまり思わない。
全面否定や、迷惑がられたり、不愉快に思われたりするのは嫌だが、ニュートラルでいい。
人に感動を与える、とか、そういう大それたことは思いもしない。
わたしが、最も関心があり、深く掘り下げ、納得ゆく答えが欲しいのは、「自分」である。
その、自分をより知るために、追及手段の一つとして、多くの他人や、周りにいる人々の行動や心理を知りたいだけである。
つまり、自分以外には興味がなく、一番説得、納得させたいのが、自分である。
自分がどう思うか。

、、、
と書きながら、眠くなってきている。
ああ眠い。
むしろ、自分にも興味が失われてきているのかも知れない。

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疑問だらけの人気ランキング

2017-12-01 | ブログ
ブログでよく書かれている「人生いかに生きるか」。
ある人気ランキングに入っていた記事を読んで、ガッカリした。
「どれだけ長く生きたか、ではなく、いかに生きたか」
と短文、シンプルに書かれていた。
内容そのものは、セオリーであり、深い意味がある。
読者が読んで内容をまとめてみたら、筆者はそういうことが言いたかったのか、というならわかるが、単に、上記のフレーズが載せられていただけ。
なんでこれが、ランキング入するのか、わからない。
諺や格言をそのまま載せているようなもの。
言い尽くされたフレーズ。

自分がそう真に思うのは、全く異議なし。
紆余曲折の結果、そういう人生訓に辿り着くのは、意義がある。
人真似ではなく、自分で見つけ、掴んだ道だ。

だが、フレーズ、表現として、それだけ、ぽんと書かれているものが、人気ランキングに入っていると、どんな基準でランキングしているのか、強く疑問を覚える。
わたしの、「gooさま へ」という記事もである。
あんなものは、まるで意味のない駄文、へ記事なのに。
コンピューターが選んでいるとしか思えない。

でも、そういう、紛れ当たり的な選考で自分の記事が人気ランキングに入ると嬉しいし、モチベーション アップになるので、否定はしないが、、、
たんに、選考基準に疑問を抱いていて、信用していないだけである。

わたしは、ひねて可愛げがなくなったようで、そうそうカンタン単純には踊らされなくなった。


と↑アップしてブログ村に行ってみると、最新蝶記事がランクインされていた。
やっぱり嬉しい。
ありがとう、AIさん。

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