蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

空き家で、行く年、来る年

2017-12-27 | 
ここのところ、急に、スマホのバッテリーが弱り、外ではあまりスマホをいじれない。
ブログはおろか、別SNSのコメント返しも、ままならない。
外での移動時間や待ち時間を利用してのブログや、日記なのに、歯がゆい思いをしている。

自宅でアップすると、家ではもう後は何もすることがなく、頻繁にコメントや足跡(わたしにアクセスしてくれる人)を見に行き、ほとんどスマホ中毒状態になっている。

その状態は、わたしは好まない。
依存症。
もっと他にすることはあるだろうに。
掃除とか、掃除とか、掃除とか。
整理とか、整理とか、整理とか。
断捨離とか、断捨離とか、断捨離とか。

(こういう表現方法で書くと、トラウマの元さんなら、「同じ語が3回かぶっていますよ、消して1語につき1つにしたら?」と、指摘してくるに違いない。一事が万事、あぁ、蘇るトラウマ)


話を戻す。
そのくせ、スーパーで迎春用品や、食品を見ると、お尻に火が付いたような焦燥感と、実行していない嫌悪感のようなものに襲われる。
しめ縄、ウラジロ、干し柿、飾り餅、、、
楽しいソワソワではなく、嫌な追われる不快感。
迎春は、誰もいない、夫の実家なので、色々考えただけで疲れる。

31日、午前に夫の実家に移動して、午後に買い物をして、夕方までに準備を整えようという、無理のあるプランそのものに問題がある。
布団は?
暖房は?
うまくいかないなら、いかない、で、来年の課題にしよう。
というか、夫と二人、空き家に移動するだけなら、別にわたしのこころは痛まないのだが、
あちこちから、散り散りの、わたしの子供たち、家族メンバーたちが集結するので、弱っている。(ついでに、ゲストにお姑さん)
どう考えても、せめて前日から用意すべきなのだが、息子のスケジュールに左右されそうな気配。

息子は我々の家(息子にとっては実家)を素通りして、夫の実家に直行、直帰、ということになるかも知れない。
せっかく遠くからの帰省なので、我々の家にも帰ってきて、30日、夜は、近所の娘一家宅で集まろうか、という案が浮上。
娘は独立していて、しっかり娘と気働きの旦那さん、こちら、わたしは老い始めの親、どちらが親元なんだかわからない。

ひょっとすると、30日から夫の実家(空き家)に行くかも知れない。
まだ、今のところ決めかねている。

お客様を迎え、ゆく年、来る年、迎春!
が望ましいが、わたしが出来ないでいると、みんな各自、助けてくれる。
招く、招かれる、ではなく、集まる、という、持ち寄り迎春である。

求心力を欠いた空き家で、メンバーたちが駆け寄り、お正月を祝うのも、悪くない。
ああ、サボりの自己肯定論理。

だって、皆さん、もう大人になってバリバリ働いてくれるから、わたしが、老体に鞭打って、そんなに張り切らなくてもいいのだ。
無理をすると続かない。
本来は嫁は家を整え、ましてや迎春などには、ピカピカにし、厳かに新春を祝うのであろう。
いいの、いいの。誰も文句言う人はいない。
だって、誰もそこには住んでいないのだから。
家は魂の入った箱、誰もいないなら、空箱。廃品回収の日に捨てたって構わない。
それを捨てずに、皆んなで集まってくれる、それだけでも嬉しいではないか。
もし、息子が彼女か嫁でも連れてきたりしたら、気が狂わんばかりに嬉しいが、気が狂わんばかりに、重圧苦の年末年始だ。
その気配がまるでないのは、喜ぶべきか悲しむべきか、、、。

と、これを書きながら、やはり30日に帰ろうかと思ったりしている。

例年は、わたしの実家にも皆んなで新年に駆けつけたが、今回は日にちを少しずらして、集まる日は、お正月ではなくなり、ほっとしている。
ダダダダーっと東へ西へ、一気に民俗大移動は疲れる。

住む人のいない、空き家の実家めぐり。
これが、行く年、来る年なのか。
とりあえずは、我々老人が、本格的に若い人の世話になるまでの間、空き家をめぐれるうちは、どうにかパワーが残っているということだ。

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