へんな洋食屋より発信!

横浜市南区にある洋食屋から旬な話題を発信します。

へんな洋食屋

2007-03-26 08:27:39 | Weblog
結局、昔から神様を敬いながらも恐れたりして、神様の領域である完全・完璧をワザワザ避ける。聞いた話だが、満月も危ないらしい。そう言えば、狼男やドラキュラはそんな晩に出ちゃう。ある倒れかけた物流の大企業の社章は、満月を欠いている。満月を目標にしたのだろうが始めから満月は描けなかった。満月を自分の今に例えて詠った藤原道長も恐れ多くて当時の神の領域である天皇家に近付いただけであるし、終日を恐れながら憂いて目を閉じた。「壺」である。「壺」は、上から見たら円、中は暗く深そうに見える。まるで、奈落の様だ。

へんな洋食屋

2007-03-25 08:33:01 | Weblog
恐ろしい「ど壺」、言わば神の落とし入れですなっ!こんな話、神社の鳥居や寺の山門は左右対称に見えるが必ず左右が異なる。完璧は、神様が怒るからだそうです。人間は、完璧は遺憾という事だっ!知ってからよーく見るようになり、確に鳥居の柱の太さが違う、山門の彫刻は左右違う等、ワザと狂わせている。神の怒りを買って「ど壺」に嵌らぬように職人達は、完璧をしない。その潔さも「壺」だなっ!聞いた話だが、西洋もそうらしい。シンメトリ(左右対称)には全てが嫌う。趣味のパッチワークでさえシンメトリは避けるらしい。

へんな洋食屋

2007-03-25 08:32:45 | Weblog
また、叙情的古典派印画機械持込散歩術学中に歩いていて「おやっ!」と思わせる地形に出会う。自然なんだけど妙に不自然な地形、ど壺に嵌り極点まで歩かされる。大概、水気がある。しかも集中点です。「ど壺」ッ言うがつまり「壺中の壺」、妖気漂う極点だっ!その「ど壺」に嵌ると大事なモノを落としたり事故に会ったりして、いわゆる「間が刺す」。間は、魔であろうか?大概は、耐えきれずに間に呑まれてしまう。そうならない様には、「ゆったりとした正しい心の動き」を持っていないとなりません。引き込まれた方は、人生に汚点を残す。

へんな洋食屋

2007-03-24 08:21:21 | Weblog
水道橋のある楽器店で見た妖気漂う古ギター。音が出ていた様な気がした。人にも極希に居ます、いわゆる「オーラ漂う方」。入店した瞬間に漂う普通ではない空気、見たことはないが権現の様な佇まいです。おそらく、誰の為・何の為にか全神経を集中し偽り無く機能の全機関の人望を背負ったに違いない。「壺中の壺」は、ソコイラ辺に沢山は無いけれど研ぎ澄まし、自らを鏡にすれば自然と姿を現す。時だって有る、魔の刻です。その妖気漂う時に入る瞬間に怖じけずく、そして入れない。自らが達していないからだっ!「壺」の怖さでもある。

へんな洋食屋

2007-03-24 08:21:12 | Weblog
何か哲学的に成ってきたが、思考から産まれた結果は物体にしろ技術にしろ信念という個性の集大成である哲学が存在するに違いない。だから、その「壺」が語りかけてくる。ショーケースの中から圧倒的な存在感で語りかける逸品達も、職人の入魂の姿も哲学に溢れその一挙手一投足が「壺中の壺」。以前、尾張徳川美術館で立ち止まり固まってしまった「平仮名の書」、仮名文字だから優しい筈なんだけど圧倒的な存在感で語りかけた。その端に小さく立て看板、新ためて見直した。国宝「源氏物語絵巻」の文章でした。未々、沢山あるなっ!

へんな洋食屋

2007-03-23 08:28:34 | Weblog
何か、切羽詰まるところに「壺」がある場合に近付いた。そうっ!ヒョッとしたら「壺中の壺」は、人生や活動の末期の方に存在するのかも知れません。思えば、どんな達人・名人もある時期を迎えて言われている。決して、若年から言われはしない。若年では、せいぜい究極の技とか天才肌等と表現されるが、円熟とか至宝とかは言われない。つまり「壺」ではあるが、「壺中の壺」ではない。その中でも楽聖モーツアルトや至筆佐伯祐三などは若年から出たし結果として至宝です。だけど活動の末期でした。やはり「壺」は、悟りの活動の末期の手柄。

へんな洋食屋

2007-03-22 08:31:09 | Weblog
儚いーはかない、と言えばこれから咲く「桜」。本当に儚い。一年間溜めたエネルギーを一週間で出しきる。本来は、新たなる命への支度なんだけど見掛け上は大変に儚い。夏の、虫達だって、特に蝉。何年も土の中で過ごし世に出るのはたった一週間です。その儚さを題材に芸術に高め人生に例えた「壺中の壺」がある。正にガラスの壺なんだけど、エミール・ガレの作品。ガラスの壺に儚さの代表の花や虫達が融合され、しかも命の末期的状態の姿で写されている。初めて見た瞬間、固まりました。悔い無く生きる生物の生態に「壺中の壺」を見た。


へんな洋食屋

2007-03-22 08:30:34 | Weblog
秀吉も辞世の句で「露と落ち、露と消えにし我が身かな、浪速の事も夢のまた夢」と詠ったように人生は儚い。という事です。だからこそ、「壺」の模索は大事。残らないモノは何も無いですよ。有形・無形を問わず必ずや壺は継承される。現在の科学や推測だって全てが突然現れたのではなく、継承の連続から産まれた。巧みの忍耐や知恵が産んだ様々な製品や文化は、今でこそ「壺」となっているが実はその永永こそが「壺中の壺」です。だから、続けたい。永永が何かに結び付く事を信じて止まず、無形で良いから解決の仕方を造りたい。

へんな洋食屋

2007-03-20 08:32:15 | Weblog
そして昨夜のNHKの「美の壺」和菓子でしたが、儚い。食べたら終り、跡形も無い。しかしそこに「儚さの壺」。少し勇気付けられた。オイラの活動に料理・音楽が有り、それは実に「はかない」。済んだら跡形も無い。オイラは常々思っていた、人生に何も残せない、形としてです。思い出等と言いながらも、人の噂は七十五日らしい。だから、何か残すモノと彫金や象牙細工・写真・絵等とやり始めた。姿・形ではない、と言いながらもやはり痕跡は欲しい。その上で、「儚い壺」も有って良い。モノ造りにも「壺」にも様々な形態が有るなッー!

へんな洋食屋

2007-03-20 08:32:08 | Weblog
歌謡曲にしても、やはりデビュー作。小説だってデビュー作。なんにしろ、デビュー作は心意気が違う。「壺」と言えば「壺」、それからの長年から産まれる熟成された「壺中の壺」、心意気も巧みも精神状態も熟成の極点に達したら「無形文化財」いわゆる「人間国宝」だっ!そこまで行かなくも、名人・達人・大達人はいっぱいいる。相当好きであっただろうし忍耐もしただろう。だから、続けてきた。そして結果として成るべくして成った。「壺」にです。心身共に壺に成った。素質どころか才能も有ったと思うが、好きと忍耐の総合力の賜だなっ!