森 裕之先生(立命館大学教授) 唐鎌 直義先生(元専修大学教授)
1月22日~24日、長野県松本市の勤労者福祉センターで「第36回自治体政策セミナー」が開催され、22日(土)のみ、日帰りで参加してきた。早朝に家を出、研修を終えて帰宅したら、日付が変わっていた。
地元信州大学の安井先生の挨拶で始まり、午後1時30分から3時30分までは、森 裕之先生による「『地域主権改革』の幻想と『優れた地方自治』への課題」と題して講演と質疑、午後3時30分から5時30分までは、唐鎌 直義先生による「貧困、社会保障と地方自治体」と題しての講演と質疑がなされた。
1. 森先生の講演
民主党が掲げた「地域主権改革」とは何だったのか。過去形で表現されたが、現に民主党政権はこれを推し進めようとしている。
確かに民主党政権は当初、「コンクリートから人へ」として、大型公共工事中心から社会サービス中心へと切り替えようとした。また、「地域主権改革」、「官(官僚政治)から政治主導へ」とし、財政面では2010年度の国の一般会計の当初予算は92.3兆円と過去最高になる一方、税収額は37.4兆円で1985年度以降最低水準となった。一方で国債発行額は44.3兆円と過去最高の水準となった。
しかし、国全体の財政立て直しを図ろうと政治主導(といっても、実際は専門家でもない素人集団の政治家によるもの)の名の下に進めようとした結果、地方交付税が削減され、自治体の自己決定権を高める(地域主権と民主党が呼ぶ)ということと、相容れないものとなった。これは、図らずも自民党政権時代になされてきた、「三位一体改革」と同じ構図となった。
また、民主党による政策の特徴(3点)は、
① 消費税の増税と所得税の累進性を強化(中福祉・中負担)<としているが、それによる国民が得られる公共サービスの中身が見えてこない>
② 直接現金給付による消費拡大<「子ども手当」など。しかし、依然として消費拡大には結び付いていない。将来の見通しが持てず、不安のため、「貯蓄」にまわっている>
③ 法人税の引き下げ(5%)<これで、「政府は企業が国外に逃げていくことを食い止め、雇用を増やす」と言っているが、財界自らが言っているように、「法人税の高い低いで国外に企業を移すのではない」や「雇用を増やす義務はない」とはっきりと示している。大半の中小企業は法人税の引き下げとはならず、一部大企業の「利益」となるだけ>
民主党が進めようとしている「憲法の理念の下に地域住民が自らの判断と責任において地域の諸課題に取り組む」ためには、「自治体の首長や議員を選ぶ住民の責任」が益々重大になるのに、三田の議会でも民主党は積極的に「議員定数削減」を推し進めようとしている。自分たちのやろうとしていることと矛盾したことを平気でしようとしている。理解に苦しむ。
さらに、地域主権改革を進めるとしながら、「政治主導」でするとした「事業仕訳」は結局のところ、実態は財務省主導で進められた。そのなかには、「地方交付税金削減」が入っているが、なぜ、無駄をなくす対象になるのだろうか?
最後に、優れた自治と充実した財政を取り戻すために、かつて1971年代に革新大阪府で70歳以上の高齢者医療を無料化実現(Civil Minimum)させ、それを1973年に国の制度へと発展(National Minimum)させた。また、1978年から大阪府では全国初となる母子保健総合医療センターを建設し、異常出産等が多く発生する社会的原因を確定して保険所や地域の医療機関と連携し、さらに社会政策へとつないでいった。(正に、行政としての役割を果たしていた)
トータルな税制改革ビジョン(所得税・法人税・消費税の再構築、環境税の導入)と暮らしを守る公共サービス(医療、年金、福祉、就労支援、環境、教育)の再建・拡充を図るなど、70年代の革新自治体運動の教訓を生かした「国の在り方」を変えていくことが重要
と森先生の講演が結ばれた。
2. 唐鎌先生の講演
「貧困、社会保障と地方自治体・・・公的責任の破壊者にならないために」と題して講演された。
2007年度の日本の貧困率(OECDの貧困基準に依拠)は、なんと15.7%であり、先進工業国の中では、アメリカに次いで第2位。いつの間にか日本は貧困率トップクラスの国の仲間入りをした。
1990年のバブル経済真っ盛り、340兆円という記録的数値を達成した国民所得は、「バブル期をしのぐ好景気」といわれながら、また「国民にとっては、失われた10年」といわれながら、国民所得は360兆円前後で推移した。しかし、この間の勤労者世帯平均年収は一世帯当たり100万円も低下した。その後10年を経て「一部の富者と多数の貧者を同時に生み出す社会構造へと日本が作り変えられた」。まさに、「格差社会」がつくられ、皆が幸せになる社会にピリオドが打たれた。このように、国民全体のパイは拡大してきたが、その富はどこへ消えたのか?
OECDが採用している「相対的貧困率」(当該国の中位所得の1/2以下の所得で生活している人々の割合」で、日本の場合は、「中位所得」が460万円とされ、その半分だから、標準世帯で年収おおよそ230万円未満が「貧困と認定」される。
政策的に隠されている日本の「貧困」
「日本では、保護を受けるべき世帯の85.6%が保護を受けられない状態にある。一方で、イギリスでは、僅かに13%のみが保護を受けられない状態」。
こうした日本の公的扶助制度が果たす機能の低さの原因として、生活保護制度がいくつかの理由により機能していないことがあげられる。つまり、制度の運用によって隠されている側面があるとされる。
貧困が隠されてしまう理由として、先生が大学で調査をしたところ、「食料に困った学生の割合は70%にも上っていた」。しかし、大学生の大半がそうであるように、貧困者自身が貧困であることに気がつかないことがあげられた。
また、イギリスでは4軒に1軒が公的扶助を受けている世帯に対して、日本では45軒に1軒の割合のため、多くの国民が保護受給者と身近に接することが少ない。さらに、イギリスでは、預金を約250万円まで所持可能に対して、日本では約7万円程度の所持金が資産と見なされ、保護を申請しても受けられない。
昨今の経済状況では、正職員(正社員)として一生懸命働いても基本給は月額15万円ほど。これでは経済的に自立できない。自立できない人が数多く存在している状況下で、「就労自立支援」を全面的に推進するのは誤りではないかと指摘された。(雇用の質を高めないで、「何でも働け」では、人間でなくなることを意味する)
貧困と格差をなくさなければならない理由は、
① 貧困の放置は企業を含む社会全体にとって大きな負担になる。
② 国は自治体が徴収できたはずの逸失利益にも目を向ける必要がある。つまり、貧困を放置して税金をとりそこなう愚挙が現在の国の政策になっている。
③ 貧困の放置がもたらす犯罪の激増によって地域社会の不安が増大する。
④ 「生き甲斐の喪失」はそれと対極にある「死に甲斐の意味づけ」(貧困は戦争を準備するもの)
とされ、国の富に見合った社会保障で生存権保障の実現をさせることの重要性を示された。
そのためには、「内需の拡大」で経済循環を構築(国民の所得を増や)し、資本主義国として安定成長できる方向を模索しなければならない。国民の購買力に支えられた経済の発展が重要と思われる。その一環に貧困と格差を除去する社会保障制度の拡充があることと、締めくくられた。
これまで私自身が考えていたことの点が、線で結ばれた分かりやすい研修となった。
数年前に完成したといわれる、松本市内の新しい「古い街並み」は、とても落ち着いた雰囲気である。