長谷川よしきのブログ

格差社会を無くし、誰もが幸せを実感できる社会を目指して!
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ベトナムへ原発輸出 ⇒ 核廃棄物は日本が引き取り 

2013年02月26日 | ブログ

 間もなく、福島原発事故から丸2年が来ようとしている。原発事故が起きた3.11のわずか2週間後には、自民党はもう原発を輸出しようと画策していた。

 ところが日本がベトナムに原発を輸出し、原発稼働による「核のゴミ」である使用済み核燃料は全て日本が引き取ることになっている。

 それは、「核不拡散条約」で核保有国の大国が世界の小国に核物質を保有させないためであり、それを許していないから。ましてや僅30年前にベトナムはアメリカと戦争をし、アメリカに勝ったベトナムに核物質を持たせることをアメリカ自身が許さず、日本がベトナムに原発を輸出するとなれば、ベトナムで生じた使用済み核燃料は日本が引き取る義務を負うことになる。

 こうなれば、今でさえ日本にはこれまでに溜りにたまった使用済み核燃料を処理できずにその危険が増している現状の上、さらに次々とベトナムから危険な使用済み核燃料が持ち込まれることになる。

 ベトナムへ原発を輸出しようとしている財界は、安倍自民党政権には何としても原発再稼働(今年の参議院選挙後)をさせ、国民には命の危険にさらさせながら、莫大な利益を上げようと狙っている。

 残念ながら、このことをマスコミは全く報道していない!

(「NHK問題を考える会での東京新聞特報部元デスク・坂本充孝氏の講演の一部)


TPP: 言葉のすり替えするな!

2013年02月24日 | ブログ

Dscn7877 降り続く雪で近くの山が見えない

日米首脳会談後の記者会見で、安倍首相はまたもや言葉のすり替えを行っている。

 「聖域なき関税撤廃ではないことが確認された」とし、TPP交渉参加の決定を急ぐことを表明した。。

 ところが、「共同声明」では、日本がTPP交渉に参加する場合、「すべての物品が交渉の対象になる」ことを確認し、「TPPの輪郭」(2011年11月12日に交渉参加国(9か国)の首脳が発表)に示された「包括的で高い水準の協定を達成する」ことも確認した。つまり、「共同声明」は例外なしに関税と非関税障壁の撤廃を目指すTPPの基本に変わりないことを再確認した。

 一方、「共同声明」は、「最終的な結果は交渉の中で決まっていく」とし、「TPP交渉参加に際し、一方的にすべての関税をあらかじめ約束するよう求められるものではない」とも述べており、これをもって首相は「聖域なき関税撤廃ではないことが確認された」と表明した。しかし、「共同声明」は、すべては交渉の結果しだいだとしているにすぎず、「聖域を担保する」ものではない。

 このように国民には分かりにくい表現で伝え、言葉のすり替えを行うことは許されない!

 年収200万円を下回る人々が急増して1,400万人を突破、生活保護を受けざるを得ない人も急増、また生活保護基準前後やそれを下回る人もどんどん増えているのなか、医療からも遠ざけられる人も増加している。

Dscn7878 「しんぶん」赤旗号外より

 TPP交渉参加で、アメリカ型医療制度(日本のような「皆保険制度」がなく、民間の保険に加入するか、高い保険料が払えず、結局医療を受けられない現状・・・マイケル・ムーア監督の映画「シッコ」参照)が持ち込まれ、貧困が命を奪うことに連なる。

 さっそく財界はTPP交渉参加の方向となったことを歓迎したが、金儲けの一方で、国民の生活が犠牲にされる。「作り出された高い内閣支持率」で、真実が見えなくなってはいけない。

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 昨日の党会議で訴える 金田峰生氏 と 山下よしき氏


視察: 市民とともに作り上げる公共交通(山口市)

2013年02月20日 | ブログ

2021

213日(水)午前930分に山口市役所を訪問・視察をおこなった。

  山口市が進めている、「市民、事業者、行政が協働しみんなで創り育てる」交通政策について学ぶためである。<o:p></o:p>

 早速、地域振興部交通政策課長の原田憲明氏、交通政策担当主任主事の守川洋氏から説明を受けた。 

 山口市はH1710月に14町合併、H22年1月に阿東町を編入し、面積1,023k㎡、人口20万となり、非効率な都市構造となっている。また、高齢化率は24%にもなり、社会福祉費の増加へと。さらに強いマイカー依存の非線引き都市(都心スプロール化)となっていることで、中心市街地の衰退、生活インフラ整備・維持コストの増大、農山村の人口減少や生活機能の低下へとなっている。これらにより、行政主体のバス運行は財政負担の限界ともなる一方、移動手段のない地域から不公平感といった不満になり、「わが地域にもコミュニティバスを導入してほしい」といった市民の声が増大してきた。 

 こうしたことから、H184月には庁内で「山口市交通対策推進協議会」を立ち上げ、1年半で計7回の会議を開き、市民交通計画を決定。さらに、計画の検討段階から市民を巻き込んで考えていく必要があると判断し、H18年5月を第1回に「山口市交通まちづくり委員会」(外部組織)でこれも1年半で8回の「公共交通のあり方」を検討した。 

 この間、市民のアンケート調査、パンフレット市内全世帯配布、市内11会場で地域検討会、地域勉強会(のべ50回開催)、山口タクシー協会との意見交換会(のべ3回開催)、中間案に対する市民に県の募集、商工会議所・商工会との意見交換会(のべ4回開催)、まちづくり審議会(のべ15回開催)と、事業者をも巻き込んでの検討を重ねた。 

 こうしたことができたのも、「基本理念」として「市民の移動手段は、交通事業者や行政だけでなく、市民とも一緒にみんなが協働して創り育てる」をもち、「みんなで役割分担をして長続きする公共交通体系を創っていこう」と市民とともに、行政が一緒になって努力をしてきたからである。 

 課長さんは、こんなことを言われた。『市民の皆さんが一生懸命汗を流してくださったからできたことです』 

 確かにそう思える。と同時に、毎回の検討会、地域勉強会等、実に多くの会に市の職員が参加する等、市職員も同じほど「汗をかいた」でしょうと述べると課長さんは、否定されず、微笑んでおられた。その後も、H19年からH23年まで、何と424回の地域勉強会が開催された。驚くほどの努力である。<o:p></o:p>

  しかも、努力の内容が素晴らしい・・・・・

 「地域勉強会で心がけていること」として、<o:p></o:p>

 住民が集まりやすい日時を設定していただく<o:p></o:p>

 検討する際には、「案を2つ以上」提案し、参加者と一緒に議論する<o:p></o:p>

 方針を理解いただく必要があるときは、第3者(公共交通委員会委員)に参加していただく<o:p></o:p>

「整備方針」は、「機関交通」としての鉄道や路線バスを都市核への明日セ須利便性や速達性を向上させ、「コミュニティ交通」はバス・タクシーなど地域の特性やニーズに合った手段を確保し、地域をきめ細かく回り、地域の中心地や機関交通に接続、「連続性の確保」として、乗り継ぎや結節点については、商業施設・医療機関等を活用しながら、憩いの場となるよう配慮し、待ち時間・移動距離・運賃などが小さくなるよう工夫。<o:p></o:p>

 これら公共交通政策を進める上でのいくつかの特徴点<o:p></o:p>

 利用する動機づけとなる事業の実施「先ずは乗ってみよう!」<o:p></o:p>

市民を対象に公共交通習慣やパーク・アンド・ライドなどを実施し、市民意識の高揚を図る<o:p></o:p>

 地域での検討会を重ね、応募(5地域)による実証運行がなされる(追加3地域が可能性あり)<o:p></o:p>

 本格運行の条件が柔軟<o:p></o:p>

 収支率を30%(地域内に病院や商業施設がない場合は、25%以上)以上、乗車率を30%以上へとハードルが低い。しかも、この基準は、3年間で1回でもクリアー出来ればよい 

 散在する小集落では一般タクシーを共同利用し、タクシー利用権をH20年から交付する実証実験をしている(乗り合わせるほど、お得)<o:p></o:p>

  全市で取り組む「ノーマイカーデー」

  チラシを全戸配布(半額券、10%割引クーポン券の刷り込み)、地元企業や、商工会議所などへの協力のもと、毎年取り組み<o:p></o:p>

 2011年度、地域公共交通活性化・再生優良団体 大臣表彰受賞されたが、このような取り組みがなされている決定的な要因は、市長自身がその政治姿勢、市民生活を支える基本的なスタンスと政策を持ち合わせておられることと言えることが明確であった。<o:p></o:p>

 三田市においても大いに参考にできるであろう。<o:p></o:p>

25 山口市役所にて


視察:倉吉市の地域振興と観光まちづくり

2013年02月20日 | ブログ

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「谷口ジロー」の名前の入った電車のフロント  谷口ジロー作「遥かな町へ」

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赤瓦・白壁の7号館 「元帥酒造本店」

 

視察の初日である212日(火)午後130分から、中田議員・長尾議員・長谷川の3名で鳥取県倉吉市の市役所を会派の視察として訪問した。「地域産業の活性」と「地域資源を活用した観光まちづくり」について学ぶためである。

始めは産業環境部商工課の美舩誠課長さんから「倉吉市地域産業振興ビジョン」(くらしよい倉吉を創るために)策定までの過程と、その後の取り組みについて伺った。<o:p></o:p>

 20094月に議員提案・策定による「倉吉市くらしよし産業元気条例」が施行され、同年11月の第1回戦略会議から4回の会議を経てよく20108月に「倉吉市地域産業振興ビジョン」が決定された。

 倉吉市の産業背景として、「雇用自立度」は県内4市比で他市と同じく下がっているが、下がり度は低く、それなりに頑張っている様子がうかがえる。<o:p></o:p>

 一方、「市民所得指数」では、県民所得一人あたりの平均値を100とした場合で、鳥取市・米子市に比べかなり低く、H.23年度で95.23である。しかし、他市に比べ、農業所得はH.17年度の108.52からH.23年度の123.84へと大きく改善してきている。要因として、大規模化、認定農業者(中でも若者)が増加し、6次産業化の取り組みも始まってきている。 「いかにして域内に広げ消費していただくか、更に観光客を引きこむか」の観点で努力されている。<o:p></o:p>

 20121月には農産物加工工場の誘致に成功し、30人規模の雇用となっている。休耕田を里余資、この地でとれた農産物を加工している。また、ブランド農産物の「ブランド力」(光センサーにより糖度や塾度、外観などの厳密な選果)アップにつなげている。<o:p></o:p>

 2010年度から「倉吉市商品等販路開拓支援事業補助金」制度を創設し、市内の中小業者等が自社の商品・製品を売り込むため展示会・商談会等へ出店し、ビジネス機会を広げる取り組みに支援をしている。大学との連携も含め、商・工・農の連携によるモノづくりなど、44の個人・企業・団体が加入し市は100万円の補助をしている。これにより、既に4社との商談が成立している。<o:p></o:p>

 

 このように、地域の産業の連携等、戦略を持っての取組が進んでいるが、三田市における特産・ブランドを更に発展させる可能性もヒントとなるのではないだろうか。<o:p></o:p>

 引き続いて企画振興部観光交流課長の谷田富穂市から「地域資源を活用した観光まちづくりアクションプラン」についてお話を伺った。 この方は、これまで観光協会事務局長もなさっておられ、「倉吉市の観光については任せて」(と、おっしゃってはいないが)といわれるくらい自信を持って進めてこられている印象を持った。<o:p></o:p>

 赤瓦・白壁など江戸時代末期から明治・対象の古い商やの街並みが今なお残る倉吉市。<o:p></o:p>

 谷口ジロー作『遥かな町へ』が1998年に「ビッグコミック」(小学館)に連載され、文化庁から1999年にメディア芸術賞マンガ部門優秀賞、2003年にフランス・アングレーム国際漫画フェスティバルベストシナリオ賞を受賞している。<o:p></o:p>

 この谷口ジロー氏の漫画からまちづくり戦略として「遥かなまち倉吉」創造プロジェクトを立ち上げ、添付写真のようにJR列車にも宣伝するような取り組みまで行われている。<o:p></o:p>

 市役所内での説明を終え、街にでると歩いて数分のところが「遥かなまち」の懐かしさ・人のぬくもりを感じさせる赤瓦・白壁の街並みが見えてきた。短時間だったが、味わうことができた。

 歴史的人物や建物の豊かな三田市の地域資源をどのように活かしていくか、大変参考になったが、それを活かす提案などもしていきたい。<o:p></o:p>

 


地元ウォッチングと自治会ウォーキング

2013年02月17日 | ブログ

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 知っているようで、案外知らない地元のこと。改めて「地元を見てみよう」と2月17日(日)午前中に地元の方々とともに、見て歩きを行った。

 砂防ダム工事現場、山里付近の河川改修現場、来年度予算付けがなされる急傾斜地崩壊対策地域の小柿現場、小学校グランドの芝生化、波豆川の八坂神社等々。

 安全対策、子どもたちの教育環境、歴史文化を知ることができ、行政の働きとともに、私たちの生活と文化など、短時間だったけれど改めて考え、受け止めをした。

 夕方前には共産党のポスターを張れる手製の大型看板を設置することができた。

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全国でもまれな「笑う獅子」

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                                 「間歩」(坑道)の入り口

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 銅を採掘した「間歩」坑内              ウォーキングに参加した方々

 

 正午からは、木器自治会主催によるウォーキングに参加し、猪名川にある「多田銀銅山」をボランティアの案内者の説明を聞きながら自然と歴史を楽しむことができた。

 奈良時代の東大寺の仏像鋳造に銅を寄進したといわれる。平安時代、江戸時代と約3000軒もの銀・銅の採掘のために集まった人々の集落ができるほどの質が良く大量の銀銅の採掘がなされていたようだ。

 残された文献には約2000の「間歩」(坑道)があったと記されている。「間歩」に入ってみると、寒い外とは違い気温10度ほどと、やや暖かい。すべて手作業で、硬い岩山の採掘では一日でも3cmほどしか掘り進められなかったとのこと。明り取りや空気の取り込み、中の地下水を排出するための洞穴が数多く掘られていた。

 早朝配達時はマイナス6度。昼間でも気温3~4度ほどと、寒い一日だったが、有意義な時間を過ごすことができた。