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日和山から 石巻市立病院が見える つなみと火災で被害となった石巻小学校
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全て津波にさらわれてしまった住宅地 地盤沈下で今も浸水したままの魚市場
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被災した車が集められていた 瓦礫の山が今も積み上げられていた
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津波で倒され流されてきたタンク やっと断熱工事が終わった仮設住宅と住民
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仮設住宅に描かれた感謝の言葉 全国の支援に「ありがとう」 石巻市役所内
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石巻市役所(デパートを市役所にした) 石巻市役所玄関は地盤沈下 傾いた郵便ポスト
つくばでの研修を終えた22日(日)の夜、仙台市内まで移動。一緒に研修に参加した長尾議員とともに、ビジネスホテルに一泊し、23日(月)7時半のバスで石巻市へ向かった。渋滞で1時間40分かかった。(通常は50分ほどとのこと)
石巻市では、日本共産党市会議員の水沢ふじえ議員が忙しい中、10時から午前中を使ってご自分の車に私たちを乗せて案内してくださった。
水沢議員は、3月11日当時予算委員会中であり、その日は準備のため、早めに自宅へ戻る途中に地震に遭遇したとのこと。
石巻市は、2005年に1市6町が合併して、当時17万人の市となった。合併後人口減となり、16万数千人に、3.11震災で3000人が亡くなり、今では市の人口は15万人台へとなってしまったとのこと。市の職員(医師・看護師を含め)は48名が亡くなった。
車で移動中、「今走っているところを『つなみ』が前から押し寄せてきた」と説明を受けた。中心市街地は今では車も走るようになってきたが、いたるところが「空き地」となっている。瓦礫処理をして空き地となっているのである。
市内が一望できる「日和山」へ着いた。正面には被災した市立石巻病院とお寺さんが見える。今でも市立石巻病院は機能していない。また、残念なことにかつての「チリ地震のつなみ」を経験し、それがかえって災いし、逃げ遅れて大きな災害となってしまった。
海辺の日本一長い「魚市場」「水産加工市場」は地盤沈下とつなみで被災。今も地盤沈下で水たまりとなったまま。冷凍した魚は停電で海への投棄となったが、「鼻がひん曲がりそうなほど、ひどい臭いがした」と報告。
水沢議員は、体育館などに避難した人たちが毛布1枚しかないような寒さに凍える状況から、なんとか布団などを山手側の人たちから助けていただこうと、市の広報車から呼びかけをした。多くの方から支援が寄せられたとのこと。
大工場であった日本製紙株式会社は、大手の企業が撤退する中、「撤退しない」と表明し、復興に努力されている。地元の方々は就業が確保され、ホッとされている。
石巻小学校は、とても利用できる状況ではなく、別のところで間借りをして授業を再開しているとのこと。しかし、このまちに留まって住みたい人、住みたくても住めない人で、学校の統廃合の話も出てきているようだ。
被災地では、昨年5月頃までは、乾燥による粉じんで、せき込む人が増えたり、夏にはものすごい量の『ハエ』に悩まされたとのこと。
被災した当初、避難所では食料が不足し、2日間で1つのおにぎりを3人で分け合って食べたところに、持っていた飴玉を渡しただけで大変感謝されたこと、赤ちゃんに飲ますミルクのお湯がなく、自宅を往復してお湯を届けたりなど、また細かい要望の聞き取りとその対策を続け、多くのボランティアや支援の方に支えられてきたことの説明を受けた。
大量の仮設住宅ができたが、仮設住宅に入居する前は、プライバシーが無く、しかしすぐそばに多くの方々がおられたものの、仮設住宅に入居したら、隣との境が薄い壁で声が聞こえるものの、逆に孤独となり、中には孤独死に至るケースも出てきている。
僅か2時間しか現地に入ることができなかった。12時に共産党東部地区委員会事務所(津波で崩壊したが、全国の党組織の支援で、プレハブの2階建て事務所を新築)に到着し、事務所の方々、県会議員の方やその奥様とも交流ができた。
この10カ月の間、自治体職員や多くのボランティアによる懸命の支援で、瓦礫処理がほぼ終わってきていた。そんな中、共産党の支援活動が多くの方々から信頼をされたのか、これまでに非常に多くの方が入党をしていただいている。
市役所前のたこ焼き屋さんで昼食をとりながら、お店の方親子から、率直なご意見を聞かせていただいた。またボランティアの方々への感謝の言葉と同時に、僅かな人による心ない行動に心を痛めておられた。
午後1時30分には、石巻市役所の議会事務局へ伺い、30分近く日野事務局長さんから色々とお話をお聞きすることができた。また、三田市から石巻市役所の建築課へ支援に入っている職場へも挨拶に伺い、斎藤課長さんともお話ができた。
48名もの職員が亡くなり、そうでなくても行革で職員が減らされたところに震災となり、全国の自治体から職員の派遣で救われている。出来ることなら来年度以降も引き続き派遣による支援をお願いしたいと伺った。
「防災・減災のまちづくり」のためには、日頃からその体制をとっておくことが大変重要であることが、今回の震災の大きな教訓である。家族を亡くしながらも市民のために、不眠不休で取り組んでおられる市職員、公務員として必死にその力を発揮されている。
未曾有の大災害となった自然災害ではあるが、そこには人災の要素も大きく関わっているのではないだろうか?亡くなった方々、未だに行方不明の方々、生き残った方が心の病となって苦しんでおられ、また就労ができず、大きな不安となっている。
石巻市へは本当に僅かな時間しか伺えず、全くボランティア支援ができなかった。本当に申し訳ない。(ただ、「たこ焼き屋さん」の若い方から、「来て視ていただくだけでもいいんです」の言葉には、頭が下がった)
今回の僅かな訪問で得たものは、私にとって大変大きな収穫でもあった。それを今後どのように生かしていくかが、震災にあわれた方々への支援と繋がるよう努力するのが私の課題である。