3月3日、山形県吟道大会で出吟する連吟コンクールで、チームが選んだ課題吟は、杜甫の「登高」である。詩文を諳んじ、その詩意を掘り下げて考えるほどに、人間の老いの悲しみの深さが伝わってくる。「無辺の落木蕭々として下り 不尽の長江滾滾として来る」の句は、単に見渡すかぎりの木々の葉が落ち、長江の流が尽きずに流れている、という情景を詠んでいるだけではない。落葉は壮んな人間の命数が尽きていく様であり、滾滾として流れる長江はおし止めることのできない時間の流れである。「潦倒新たに止む濁酒の杯」と結んで、生の楽しみとして続けてきた飲酒を、止めるほかないことを詠嘆している。
だがこの歌を、老いを悲しむ詩として読むだけいいのだろうか。人間には、こうした老境に至って初めて見えるものがある。静かな諦念とともに死を受け入れる人もいるが、同時にその逆境に抗い続けて死を迎える人もいる。万葉歌人の山上憶良は後者であった。
士やも空しくあるべき萬代に語りつぐべき名は立てずして 山上憶良
病に伏していた憶良が病床で詠んだ辞世の歌である。老境で憶良が取り組んだ歌の主題には、貧、病、老が多く選ばれている。藤原八束が人を遣って憶良の病を見舞った。憶良は重い神経痛に悩まされ床を離れるのもままならなかった。見舞いに涙しながら礼を言い、口吟したのがこの歌である。歌意は「男子たるもの、無為に世を過ごしてよいものか。万代までも語り継ぐに足る名というものを立てずに。」
瀕死の床にありながら、なお残された時間を無為には過ごさないという、悲壮な決意の表明であると同時に、八束などの若い世代への激励であり、訓戒でもあった。老いにいたって、人間がどう考えるべきか、この歌には深い意味がこめられている。