梟の独り言

色々考える、しかし直ぐ忘れてしまう、書き留めておくには重過ぎる、徒然に思い付きを書いて置こうとはじめる

独裁的政府を何とかしないとならない

2014-05-07 17:11:16 | 雑記
東京新聞に徴兵され上官の命令で中国民間人を刺殺した経験を「伝えなくてはならない」と公演をしていると言う話が載っていた、「銃剣を胸に押しつけると黙って私の目を睨んでいた、上官が”やれ”と命令し自分はそのまま銃剣を突き刺した、”ずぶっ”と言う厭な感触は未だに消えない、戦争はいけない、このままでは又あの時代が来る」と思って「忘れたい過去と向きあい二度と起きてはいけないと」語り始めたそうだ。
普通の民間人が銃を持って外国に行き、殺人者となった、時代の教育がそれを常態として押し出した、しかしその教育を考え実行し、「やれっ」と命令だけした上官は恐らく直接手は下した事はあるまい、中国の民間人にとって他国から力を持って占拠し略奪し抵抗したと言って殺される経と言う事は彼らが我が国人に付けた「東洋鬼」と云う名前は見事に表している、まさしく「鬼」だっただろう。
この事実を「深く反省し」と言うのが「自虐的」と言うのは事実を知らないのか、或いは知ってそう発言しているのか解らないが一般的な庶民が「徴兵制」で家族から別れ「人を殺せと教えしや」と言われる如く多生の縁を尊びささやかな生活を過ごして来た人間が現地で無抵抗の人間を殺したと言う事実を既に古傷になっている記憶を自ら押し開いて見せると言う彼らの言葉を真摯に聞くべきだろう。
既に殺した者も殺された者もその時代に生きた人々は殆ど居ない、現代に生きる世代に「責任が有る」と言うのは酷だろう、事実は深く謝罪しなくてはならないにしても「お前ら日本人は」と言われても戸惑うしかなく、現世代に国を挙げて非難する事にはどうしても感情的になるだろう、しかし加害者の子供と言う立場はそうであっても被害者の子供に残る怨念はやはり想像に難くない、隣国とし、隣人としてその関係は必ず改善しなくてはならない事は確かだが両国の世論はその逆に向かっているとしか見えないだろう、
このままでは両国の関係は解決する結果は期待できる訳もない、事実を認める事からしか未来は開かない、国粋主義と言うものは既に前時代の遺物でしかなく国境を越えた経済は既に無視できない時代になっている、その中で過去に禍根を残したままで表面的なあるいは経済的な関係で進めると言うのは本当の意味での信頼関係に癌の様に何時か顕在化したり転移したりするだろう
なぜこのタイミングで「憲法九条」を弄ろうと言うのだろう、いや憲法九条そのものより他国も国民も懸念しているのは「多くの反対意見」にまったく耳を貸さず手に入れた権利(無論それは権利ではなく責任のはずだが)で強行するその姿勢に対してである、憲法はまったく見直す事が出来ないと言う事自体はあり得ない、最高の内容であるか、そして現実にそぐわなくは無いかと言う見直し論議は当然必要だがあくまでそれは「論議」が必要と言う事で安陪政権以下が勝手に変更すべきものではない
罪と罰、戦争の罪は一概に一方が悪いと言う事は難しいだろう、しかし無辜の人間をその手で殺してしまった事に対する罰は引き金を引き、銃剣を刺した人間よりそれを命令した人間が負うべきものだ、実刑と言う様な事ではなく「人間」という高等生物が持って居るべき自らの精神に課す罰である事を望みたい
明治維新の時、欧米列強の植民地政策から逃れるために列挙に肩を並べる事を目指したのだろうが我が国は列強の椅子に座るべきではなかった、当時の政府が言い立てていた大東亜共栄圏を本来の形で東南アジアを共栄圏としてそこのリーダーとなるべきだった、そして今も