狸喰うモノ牛愛でるモノ

虐待放置、インチキ優先のやり方を信用出来るわけねーだろ

世の中はお金

2011-06-27 11:23:44 | Weblog
ニガヨモギなんかの一致する確率を計算すると馬鹿らしい数字が出てくる
はずで、さらにそれ以外の一致が多数あると。
介入者はある。
これは事実。 単なる事実。
自然災害なども含まれているので予測と誘導だけで実現するのはまず無理、
よって介入者は何らかの形で「山を動かせる」存在だ、となる。
介入者の目的が私が予想するものに近いとし試行錯誤があったと仮定すると
人類にとっての世界に元々余裕があって発展の段階に応じて進出許可地域が
増えていったか、あるいは世界自体拡張と再配置が繰り返されて
作られてきたかのいずれかと見る。
前者はパーテーション説とでもするか。 後者が創造者説。
これらとは別に単純誘導説や偶然説も説としてはあるだろう。
パーテーション説と創造者説、どちらかが正しいといった視点で世界地図を
眺めると、ウソ臭い地形が目に付くわけだが。

お金を中心に生きようとすると公が見えなくなると書いた。
逆に見てみよう。
お金はすばらしいものだと。

お金が有ると大概の事がそれで済む。
デカイ家に住めるし物もたくさん買える。
嫌な隣人や不快な業者と付き合わなくて済むようになるだろうし
美味しい物もたくさん食べれるだろうし観光旅行も好きなところに行って
好き勝手出来る。
病気になっても医者に優先的に診てもらえるだろうし行くところに行けば
女漁りも出来るだろう。

お金が無いとどうなるか。
公共料金も払えない。
農業地域だとどうかは知らないが、都市部だと飯に困るようになる。
親族友人の家に行けば食べる物くらいはあるだろうが、好まれはしない。
好きな物が買えない。
そのうち着る物に困るようになってくる。
ってゆーか靴下が少なくなってきた。

飯に困らなければいいか。
服が買えればいいか。
公共料金が払えればいいか。
家具家電が買えればいいか。
趣味の物が買えればいいか。
多分そう。
そしてそのためにはお金が要る。
お金が必要なのか。
必要だとして生活してきた。
お金が目的なのか。
お金を目的として生きてきたつもりは無いが
それを目的とした行動はわりと取ってきた。
お金が必要だとするとお金が目的になる。
何処かおかしいだろうか。

お金は何か。
流通兌換物だ。
流通兌換用の金属片や紙片や電子情報を一般にお金と言う。
公共料金や税金の請求書にゼロが並ぶ。
詳細不明だが社会では自動的に流通兌換物を求められるらしい。

電気と水道の無い生活。
どんなだろう。
とりあえず亀は近所の川にでも放すことにするか。
飲み水は近所の公園で飲むか。
うどんは棒状のままかじる。
洗濯は、無理か。
すぐに死ぬわけではなさそうだ。
でもあまりやる気はしない。
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所属はどうあるべきだろうか

2011-06-27 11:23:31 | Weblog
電化は進歩だろう、だが人がネオンサインに引き寄せられるだけなら
その社会の状態はサルのそれに近い、そしてそのサルを嫌って電化を
全否定するのもまた別種のサル社会でしかない。
車やオートバイが空気抵抗を考慮した形になったり騒音防止の
マフラーが付いたりするのは社会の進歩だろう。
だがその所有者が空力板を伸ばしたり竹やりマフラーに付け替えたり
するのはファッションの分野、進歩とは関係が無い。
アイデンティティやイデオロギーといった形で視点を固定化する、
これはどっちに転んでも頑迷さにしかならない。
世相に合っていれば人はそれをファッショナブルだとするだろうけど。

さて現代人は多所属が普通だ。
これが一生農村で暮らす事が一般的だった時代との違い。
多所属ということは同一所属内に別所属の人がいるということになる。
例えるなら私生活では劇団員でもそれは会社の同僚とは無関係、
そしてそれが同僚および劇団員のほぼ全員についても言える状態。
日本の会社のノミュニケーション文化は単一所属のものだろう、
だから心理的相互依存と行動の拘束が当たり前になる。
在日朝鮮人に付いても同じ事が言える。
朝鮮人の単一コミュニティーである事を主張するのなら
朝鮮人の国である韓国なり北朝鮮なりに帰国すればいいし、
マイノリティーとして単一所属独自藩を作りたいというのなら
人種幕藩体制国家であるアメリカにでも移住すればいい。

国家は所属になっている。
だから集団の責任範囲として国境があり集団内で相互に保障し合う
国民が居る。
こうした所属がいらないのなら全員無国籍でもいいのかもしれないが
それは全員無責任状態、おそらく合意の政治は成り立たないだろう
よって有力者が実力で秩序を維持する社会になる。
秩序が不要というのならまた別だが。
政治のために秩序が要るのか秩序のために政治が要るのか、鶏と卵
みたいな話だが政治が機能する範囲、スープの腐らない距離が国家。

国家、国民という所属は強制である。
大半の人にとってそれは生まれた時点で自動的に付いてきて
高い確率で一生ずっとそのままである。
では国家という所属は絶対か。
否である。

近代以降で一時期日本人は無国籍状態にあった。
終戦後の混乱期ともされる時代である。
大日本帝国という所属は消滅し、ほぼ同時に住人には出身地に応じて
中華民国、大韓民国という所属が割り当てられたわけだが日本列島
出身者は無所属という状態が続いた。
確定するまでの間日本地域出身者は日本人でも日帝人でもなかった。
日本(仮)人だった。
その間日本では国家所属が無いのに公意識が有るという珍しい現象が
見られたわけだがこれは単一民族としての意識が有った事、
公が継続するだろうことがほぼ確実視されていた事などをその理由
だろうと考えるわけだが。

国家という所属はあった方が良いだろうか。
私はあった方が良いと見ている。
無ければ政治が混乱するだけだろう。
では複所属はどうか。
国際貿易を生業としているサラリーマンが自国と隣国、
それぞれ別に家庭を持っていたとする。
これをどう見るか。
政治の責任は一つでたくさんだ。
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日本の親中と中国の反日

2011-06-27 11:22:55 | Weblog
現在の日本の親中派を独断と偏見で分けてみる。
1. 反米派
2. 親中ステータス派
3. 交易派
4. 縁があった派

1かつ2かつ3かつ4、などといった人も十分考えられるので最大の理由はどれか
で派が分かれているのだとする。

まず1の反米派、私が最大派閥だろうと見ているのがこれ。
日本の現状が嫌い自民党が嫌い社会が嫌いという人の多くが日本の場合
反米に行き着く。 感情反米でそれっぽく格好が付けばいいので別に中国である
必要は無く、群としてはヨーロッパを信奉したり北朝鮮を信奉したりと節操が無い。
美点欠点を挙げるのではなく先ず信奉があり、その後日本は駄目だと続くのが特徴。
私が駄人とするのがこれで感情的になってくるとウケのいい反米を羅列したりする
が、中国が無い。

2の親中である事がステータスになっちゃってる派。
歴史ロマン派と言い換えてもいいかもしれない食器とか書道とか古典とか神仙とか
漢方薬とか、現実の中国ではなく日本の中にある中国文化が好きな人たち。
好きでやっていてその事を意識しているのだから良質な人たちなわけだが
中国そのものは無視している傾向があるわけで、その点は反米派と変わらず。
儒教が入ってたりすると腐臭がしてくる。

交易派。
利益があるから好きという、正直で判りやすい人たち。
蛇頭が入ってなければ良しか。

4の縁があった派。
本来の意味での親中派とはこれだろう、中国と聞くと誰かの顔が浮かぶ人たち。
なんかの拍子に中国に住んじゃった経験のある人、近所や親戚筋に中国人が居て
現実の中国に興味を持った人など。
交友関係上の利害と親中という大義名分をごっちゃにする人もいる関係から
この派の行動が良識的とは言えなかったりもする。

日本は中国を温かく見守るべきだ、といった類のフレーズがある。
改革解放後に出てきたものではないかと見ている。
私のファンタジーに優しくして、俺の儲けを邪魔するな、
直訳するとこういった意味の言葉なのではないかと推測される。
ま、やなこったとしか言いようがないが。

さて現実の中国というと反日なわけだが、その内容はどうか。
中国の反日というと思い浮かぶのが靖国問題。
私は歴史にまつわる感情を政治にリンクさせる行動をクズのものだとしている。
歴史感情を政治化するのはクズ。
人間のクズ。
日本の靖国問題は反米派やステータス派が作り上げたわけだが親中派を
名乗る人たち、あなたたちは何に迎合しているのだと問い詰めたいところ。

ついでに言うと私は日本の首相が靖国神社に参拝することには賛成だが中国の
不安定化を促進するために靖国参拝するべきだ、といった人たちには賛成しない。
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経済云々

2011-06-27 11:22:00 | Weblog
住み飽きて、ではなく塩害が、といった感じ。
もちろ相場の話ではない。

企業には共同体としての側面もある。
そういう意味では一部の企業に社旗や社歌があったとしても問題だとは思わない。
日本社会のそうした傾向を恥ずかしがる人もいる。
一昔前の日本企業では社員の住居から結婚まで考えるのが良しとされていた。
これは継続的な社会の有力者の行動として見るに至極まっとうな在りようだ。
そうした政治行動のデメリットを挙げるとするなら所属の単一傾向が強まる事、
経営者に個々の社員に対する洞察力の類が無かった場合押し付けになる事、
社会の変化への対応は結局個々人でリスク管理するしかなく企業と言った単位で
やろうとするとシステムが硬直し無駄が発生しやすくなるなどがあるだろうが、
それぞれ「悪い」というわけではなく上に立つ人の方向性としては正しい。

内面の地位と価値の違い、金勘定で公益が見えなくなる、借金が人を奴隷にする、
人は固定費用つまりその人が明日も金を必要とする事を以って信用とすること、
これらを組み合わせると色々見えてくるものがある。
ここに至って現代の経済学者たちが馬鹿に見えるようになってきた。
彼らの大半は金ベースの範囲ではこうなる、といった限定的な議論を
しているのではなく社会を金ベースで捉えるのが正しいと信じているのだろう?

経済学者が賢いのか馬鹿なのかは置いておく。
いくつか組み合わせを見てみよう。
借金が人を奴隷にするという人類の歴史と、賭博や依存薬物との関係。
依存行動があり継続的に金が必要になるという事と労働を借金の形に取られている
という状態は精神的には遠くはない。 辞めたら破滅が待っている、そう考える。
経営者からしてみればまさに足元を見る事の出来る状態、労働契約は労働者の
多数がその状態に陥るだろう事を前提に締結されるわけだ。
経営者や取引相手にしてみれば自分の都合を押し付けやすい状態、
これが社会信用とされていると。
なるほど、優秀な移民などと言い出すわけだ。

内面の地位と価値、金勘定と公益。
自分を飾り立てるために地位を求める人がいたとする。
これは金が有れば簡単に実現するわけだ。
後進国では権力に値段が付けられているし先進国には慈善家といった地位がある。
ウェルカムトゥ金銭ワールド、その人は公益から遠ざかる。
飾られた地位が価値ではないことに気付き他人の喜びに興味を持つように
なった人はどうなるか。
他人を喜ばせた。 次にどうなるか。
よくあるのは喜ばせたはずの他人が翌日何かに失敗し、喜んだ事をどうでもいい
ものだったとする例。
ここに分岐がある。
どうでもいいとしたのはその他人が悪い、となるか、明日明後日喜ばれるように
する事を考えるようになるか。
後者を選び、その対象を広げていくようにするとそれは公益といった発想に
近くなっていく。

内面の地位と価値、個々人の算出する固定費用が社会信用。
固定費用が信用つまり会社に依存して生きようとする人が会社社会で信用される。
これは内面の地位の世界だ。 生き様を喜ぶ人はいない、が、馴れ合いはある。
私生活における自由な行動に価値を見出す人はそうでない人と比べて
会社で地位を低くされる。
ボランティア活動を評価するよう会社社会を変える、というのは逆方向だろう、
評価対象として固定化されたボランティア活動は地位の世界でしかない。
価値との違いは何か。
価値発想の行動は金銭や地位とは無関係に、自分のためにやるもの。

冒頭の日本企業共同体の話に戻ってみる。
会社が社員の家や結婚相手を探しやすい環境を用意したのは地位か、価値か。
そうした行動が喜ばれなくなったら自然消滅した。
あれは価値だったのだろう。
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