エアコン

2011-06-30 09:41:44 | Weblog
今日文明の利器筆頭に挙げられるものの一つがエアコンだろう。
前の冬は暖房無しで過ごした。 この夏はまだ扇風機も使っていない。
非文明の極みか。
私をして何らかの習慣、宗教行事の類を作り出そうとしているのだろうか。
それなら納得できる理由にはなるがそれがどのような物になるのかも不明だし
そもそもそうなのかどうか判らない。

赤道付近の後進国で頭脳労働が成立するようになった理由がエアコンなのだ
とか言われていたりする。
暑いと考えがまとまらなかったりもする。
でも暑くとも頭脳労働は成立したりもする。

周知のとおりエアコン、冷房というものは非効率な機械である。
液体が気化する時に周囲の熱を奪う、気体が液化する時に熱を放出する
といった現象を利用して室内を冷やし、室外を暖める。
これをするための圧縮や減圧にも当然エネルギーが使われるわけで
トータルでは冷やす以上に暑くなる。
十軒のエアコンに囲まれた家でエアコンを使わないか使えなかったら
そこはエアコンが無い時代以上の地獄になる。
エコや迷惑に敏感なはずの都会人が何故かエアコンだけは例外視したりする。
何故だろう。

後進国の人間全員がエアコンを使える状況を考える。
すぐに破綻という言葉が思い浮かぶ。
ではこういうのはどうか。
人が居る場所だけ冷やし、冷気を外に逃がさない。 熱気を中に入れない。
都市設計の大幅変更になりそうだが、十分に可能だろう。
エアコンの廃棄熱の方向を決め、ファンなどで上空に逃がすようにする。
商店街などの場合はアーケード化し集中冷却を設置。
戸別に冷やすのとどちらが効率が良いかは所によりそうだが。
室外機の大型化や遠隔化も効きそうな。
冷媒輸送のパイプを太くするといいのだろうか。

さて全員にエアコン、という状況は正しいか。
否だろう。
要らない人は要らないというままでいい。
最優先で設置するべき場所はどこか。
学校と病院ではないかと思う。
小学生には使わせずに慣れさせた方が良いというのも一つの意見だが、
その場合は家にあって学校に無いよりも学校にあって家に無い
という状況の方が良いと思う。
家にあるのは止めようが無いので学校にある方がまだマシだろう。
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自動車

2011-06-30 09:41:20 | Weblog
さて自動車だ。
私は運転免許を取得していないので自動車の所有者になる考えは持っていないが
今日の社会においてそれは一種のステータスでありシンボルになっていると。
男は車が好きだろうと言われれば多くの男性は、自分がそうではなくとも
大多数がそうだと頷く。

車社会化が進むと人が歩かなくなるそうな。
田舎や南国でこの傾向が強いらしい。
楽だから、という理由が肯定されると。
車は迷惑物でもある。
排気ガスがあり騒音があり、燃料を消費し場所を取り、そして事故を起こす。
都市部ではこちらが重視され無くても暮らせる状況から脱車社会化が進むと。
何故田舎ではこれが進まないのか。
この差をしてレッドネックと呼ぶ事も可能だろう、田舎の人間は良識が無く
メンタリティーが旧時代で遅れたまま止まっていると。
でもそれは都市住人の感情論でありそこで止まったら考察にならない。

田舎の生活には車が必要だが都会では不必要だ。
田舎には駐車スペースがふんだんにあるが都会には乏しい。
ここら辺が基本だろう、多くの人がこれらを指摘してきていると。
既に論じられていて新しいものは無さそうな。
田舎の人間は日常的な迷惑行動を悪とする傾向が弱い。
田舎はステータス社会である。
これはどうか。

田舎の人間は迷惑を迷惑だとしない、そうする事の方をむしろ悪い事だとする。
当てはまる人そうでない人、当てはまる場合とそうでない場合とがありそうだが
傾向は有ると思う。
田舎の人間は人の物を勝手に使う、そしてそのまま無くしたりもする。
無断で借りる事をむしろ良識とする、その傾向が有るとしてそれは
どこから来るのか。
人間関係が密であり外部からの人の流入が少ないため親の世代のルーズな習慣が
そのまま引き継がれ積み重なっていく、共同作業が多く貸し借りが頻繁にある、
物品の購入に必要となる手間や時間が都市よりも多く借りる方が効率的、
全員身内なのが当たり前で拝借する事に遠慮が無い、物が無くなった側にしても
人に聞けばすぐに持って行った人に行き着く、相互監視社会なので悪質な
拝借者に対するペナルティーの発動が容易、などだろうか。

田舎はステータス社会である。
娯楽が少なく隣人のステータスにまつわるゴシップが喜ばれる傾向が強い、
法治的ではなく身内主義的な個人制裁の世界なので各人が制裁発動者としての
地位を重視する、珍しい物新しい物が単純に娯楽として喜ばれる、などか。

迷惑という発想が有る人と乏しい人。
一緒に住むとトラブルが多発するだろう。
どちらが正しい、というわけでは無い。
都会人は自分たちが正しいと言い、そしてそれが通るのだろう。
運転免許の取得というのはその認識差を見て必要ならば切り替える
良い機会だと思うのだが、現状有効活用されているようには見えない。
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中国と北朝鮮

2011-06-30 09:40:59 | Weblog
電気が止まったらどうなるか。
パソコンが使えなくなる。
電子レンジが使えなくなる。
そうした生活も有りかもしれないが、歓迎する気は無い。

何故中国は北朝鮮を止めないのか。
中国人の歴史観からこれだろうという理由を探してみる。

中国の歴史を三つに分ける。
漢や唐、明といった漢人による長期政権時代。 
それらの間にあるもっぱら漢人同士が争う戦国時代。 
金、元、清といった異民族に支配されている時代。
漢人時代、戦国時代、異民族時代が折り重なっているのが中国史と。
近代は異民族時代に始まり租界という形で侵食されるその末期、
貧民勢力や軍閥、共産党が入り乱れる戦国時代に日帝の侵略があり、
その後共産党独裁体制という一応は漢人の時代に戻ったとされているわけだ。

日本人も朝鮮人もベトナム人も、モンゴル人もチベット人もウイグル人も
漢人にしてみれば周辺の諸民族なわけだ。
漢や唐といった時代を基準とする歴史観を適用すると中央に中華があって
周辺諸民族が臣下の礼を取るといった国際観となる。
他国と対等な平和、といった発想が無い。
対等とはどういう状態かと問われればおそらく、北宋と金、南宋と元、
あるいは明と女真族、そういった歴史を思い浮かべる。
正しい中央である中華で平和に暮らしている漢人の土地を異民族が侵略する、
その前段階が対等な状態、そういう発想になると。
別に正しくもないし歴史的に平和で非戦的非侵略的だったわけでも無いのだが
中国の漢人はそうだと思い込むのだろう。
現代日本人は中国のこの傾向を中華思想と言ったりする。
さて話を北朝鮮に話を戻す。
中国が北朝鮮を止めない理由。
これを私は北朝鮮が中国に対して臣下の礼を取っているからだと見る。
北京政府の言う事をまったく聞かないピョンヤンのどこが臣下だ
と言うかもしれないがそこが中国の礼だ。
おそらく、中国を責めない、中国の認めない外部に侵略しない、国際的な場で
目下の位置に立つ、これくらいで臣下の礼が成立する。

対等が当たり前という日本人にしてみれば中国が自然とする要求は論外だし
中国が認める北朝鮮の在り様も、国家としてみればゴミ同然だ。
だが中国人、漢人だが、にしてみればそれは問題にならない、と言うよりも、
中国の歴史的正統性から問題視してはいけない、となるのではと。
中国的愛国心や政府が作り上げる国家の敵ストーリーなどと同様に中国の掟
と見ている。
北朝鮮にしてみれば韓国に進攻しない、有事の際にアメリカやロシアの側に
立ち中国と敵対すると明言しない、などの点さえ守れば中国との関係は不動、
韓国といくら小競り合いをしてもいいし中国相手の借金を踏み倒すのも可能、
となる。
中国人の掟にさえ接触しなけれ中国のば軍や党、富裕層や一般国民が統一的な
行動を取る事が出来ないよって馬鹿にし放題、と見ているのだろう
実際そういう態度を取っている。
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家庭経済の腹八分

2011-06-30 09:40:14 | Weblog
ここ三ヶ月ほど、うどんを食べる事が多い。
冷麦、スパゲッティも併て三食に二食は麺類を食べている。
元々は蕎麦派で「うどん? お子様の食べ物だろう」と思っていたのだが
最近は結構美味しいと思うようになって来ていて少ない調味料でどう
工夫して食べるかを探求している。

私の近況はまあどうでもいい話だろう。
家庭の経済状況を三つに分けてみる。
金持ち、普通、貧乏。
金持ちという状況は当面生活に困る事は無いと思っていてより豊かな
人生を送るために余暇の出費をどうするかを考えている状態。
普通の経済状況は生存に困る事は無いだろうとしてはいるが日常生活に
回避可能な程度の困難はあるが方法によっては将来別の困難が発生する、
あるいは困難は無いが日常的に不便に感じる事がある、といった状態。
貧乏とは将来なんて無く、当面の生存が課題という状態。
旅行に対する態度で分けると周期的に旅行をし帰ってきたら次は何処に
行くかを考える人というのはもっぱら金持ち、最近旅行に行っておらず
数年積み立てる前提で行くかどうかを考える人というのが普通、
有料の滞在先なんて論外、というのが貧乏。

貧乏には不安が付きまとい、普通なら普通で不満がたまり、
金持ちになれたらなれたで虚しさを感じるようになると。
つまり貧乏で不安が無い、普通で不満が無い、金持ちだが虚しくない、
というのがそれぞれの良い状態ということになる。

貧乏だが不安が無い、というのはどういう状態か。
まず第一は、それでも食える事だ。 
そして人間医者が居ようと居まいと死ぬときは死ぬものだとして
生きることが出来る事。
生きる事に日常と、当面死なないこと以上を求めない人だろう。
宣伝業で食っているような人たちはこの状態で満足する事を嘲笑し
貶めることを常識とするだろう、そしてその常識を共有するように
なってしまった人はおそらく、不安で居続ける側に進む事になる。

経済が普通、貯蓄なり現金収入なりがあって現状お金に困っておらず、
そしてそれに不満が無いというのはどういう状態か。
欲の皮が突っ張っていない人と言ってしまえばそれまでだが、
日常において賄える範囲での満足が有る、そういう生活をしている人が
そうなのだろう。
満足を知らない人が煽られ流されていく。

金持ちだが虚しくない。
壷を集めている人がいたとする。
当人が壷が好きで好きでたまらない、それさえ眺めていれば毎日幸せ、
そんな人がいたとしたらそれはそれで虚しくは無いかもしれない。
もっと単純に人から感謝されている、それも感謝されるための行動の結果
ではなく困っている人を助けたら結果的に感謝されたような状態にある、
そんな人かもしれない。

では虚しい金持ちとはどんな人だろうか。
壷の例で考えてみる。
壷を買ったが虚しいこれはどういう状態か。
おそらくその人は壷そのものが好きだったのではなく高価な壷を買う
という自分の自分への評価が好きだったのだろう、そして金持ちに
なった結果苦も無く入手できるようになり、高価である事、困難である事
といった旧来の自分への評価が消滅した、だからいくら壷が有っても
虚しくなったと。

金持ちになった結果虚しくなった、という人は自分が無いのだろう、
自分で物も人も見ていない。 だから高価な物に囲まれていても
入手が容易つまり安価になっただけ、人を助けるとされる事業に
首を突っ込んでも困っている人を見、困っていない状態になるのを
見届けるようにはならず単なる便利屋止まりにしかならないと。

お金はそれで何を買うかでは無いな。
それで何を成すかだだろう。
成さない人は虚しくもなる。
それならまだ生活に追われる方がマシというものだ。
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