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自我調整

2011-06-23 09:30:25 | Weblog
前に私の行動は左派いじめだと認識している、と書いた。
別にわたしのいじめは良いいじめだと主張したいわけではない。
社会的には零細ブログを更新しているだけの私が知的エリートと称する人を
多数含む、人類史上最大最強の勢力をいじめていると認識する構図が
おもしろいと思っただけの事。

私がキチガイサヨクと呼ぶ人たちに人気があった大学教授の本を取ってみた。
目に付いた章を読む。
コイツ駄目だと思って本棚に戻した。
百科事典でリベラルアーツとやらを調べてみた。
修辞学とあった。
なるほど。
手に取った本の著者が詩人だったのなら私は彼が大学で学んだのだろう
表現力をほめたかもしれない。
だが彼は学者だ。 残念な事に。

好き嫌いだけで書く。
私も同じ事をしている。
では何故彼らを否定的に書いているのか。
私は彼らの示す方向は進歩ではなく退歩だとしている。
彼らは逆に主張するのだろうそれだけの事。

犬嫌いの要素を取り外してみた。
領域の底っぽい所に石のような物がありどうやらそれが
騒音やら吠え声やらに反響して悪感が増幅されている模様。
それを意識して取り除く、という行動に出たところ
騒音のうちの吠え声、ブレーキ音、金属音などが響かなくなった。
操作の直後にナイフの先端のようなものが領域内に出現した。
しばらくしたらそれは無くなった。
外部から反響構造に対する操作があったのか、取り外した石を穴を開けて
除去したのか、何が起きたのかは判らない。
取り外すという行動に出て一週間ほどになるが、快適である。

精神科医やセラピストなどは多分、自分の中で分離し除去した
という自己暗示を掛けた、という感じに見るのだろう、解釈はどうあれ
以前から悩まされていたそれを感じなくなったのは事実。
この操作の結果犬や飼い主に無関心になった、とも言える。
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公益認識

2011-06-23 09:28:38 | Weblog
去年の宮崎県口蹄疫騒動を思い出す。
その時の与党は問題に対して公益の敵であるかのように振舞っていた。
政府が農業の敵になったら農業者は各戸に自衛するしかなくなる。
公益もクソも無い。
一昨年のネットを思い出す。
応援団と呼ばれる連中が居て、多くの人が彼らに流されていた。
カイワレ大根騒動を思い出す。
報道者が業者を庇っていた。
彼らは報じなかった、そしてその結果あのような報道となった。
そう見ている。
先日またネットに、似たような動きを見た。
また多くの人が流されていた。
相変わらず公の有無を認識せずか。
まるで進歩していない。

公益認識には差が有る。
同じ時間同じ場所に居てもある人は広く見、ある人は狭く見、
そしてまたある人はそれを認識しない。
賢い子は小学校くらいからそういうものが有るということを認識し始め、
馬鹿な子は社会に出て失敗してから学ぶ。
知的障害、精神遅滞、学習困難、言い方は色々あるようだがそういう子は、
人生の大半をそれを認識せずに暮らすことになるのだろう。
人の世界の一端を人に知らしめる存在、とも取れる。

大学は公益を学ぶ場になっているか。
否だろう。
個人の趣味のような研究を公益だと主張して金をせがむ。
広報を学ぶ場だ。
自分のしている事にこそ価値が有るといった結論を導き出すための方法の
一つは他人のしている事は価値が無いのだと主張する事。
公益を詐欺の道具でしかないと認識している人は保守派を嫌うわけだな。
大学が公益なのは第一にそこで教師が作られているからだが
教師になる人はそこで公益を学ばない模様。
教師作りの観点から研究とは何かを見るにそれは、教師の教師を
安定して作り続けるためのオーバースペック、ということになる。
もちろん研究成果が役に立つのならなお良いが、これは博打。

公益と経済益との差に注目してみる。
極端な例は図書館だな。
直接的には経済益は無く、公益だけがある。
食堂の場合はどうか。
多くの人に美味しく沢山食べてもらって健康に良い、これが公益で
客の数が多かろうが少なかろうが高く売れるのが経済益。
町には経済益寄りの経営方針の店と公益寄りの経営方針の店とが有って
それが同じ場所で競争していたりするわけだ。

秋葉原に大型のディスカウントストアがある。
DQN御用達として有名なチェーンストアで全国展開しているはずだが
ここの前だけガードレールの破損が著しい。
夜中にバイクでやってきて気にせず壊す、そういう客が多いと。
公益寄りの店でも利用客が公益を認識するとは限らないわけだ。
人が公益を認識するようになる環境というのは公益か。
多分公益だろうと思う。
有るところには有り、無いところには無い。

金を価値にすると公益認識が消滅する?
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自由経済とは何か

2011-06-23 09:28:04 | Weblog
男向けのマンガでは空腹と食欲が肯定的に描かれる傾向が強く、
地位に伴う華美が逆に歪みであり汚れであるとなる。
女向けのマンガだとこれらが逆になっている模様で、
食事が肯定的に描かれるのは「オシャレ」な場面でのみ。
そうした表現の差がどこまで一般的な傾向なのかは知らないが、
政治や文化を語るときに使われる女性的感覚という表現にはこうしたものも
含まれるのだろう、そして私はそれを唾棄すべきものとしている。

さて自由経済とは何の事だろうか。
財産権の自由を最大限に尊重するから自由経済。
各人が自由に支払い先を選ぶということは、お金が偏るということ。
売り物を出して選ばれない人には収入が無い。
これの逆が社会主義経済という発想で、働きが雇用者あるいは顧客から
必要だと認識されていなくとも社会保障という形で賄われる。
必要の判断を個々の、現場の責任者ではなく政府が一括でする。
自由経済下では雇用者、被雇用者にあった、何が他者の必要か、どうすれば
他者に必要とされるか、という発想が社会主義経済下では無くなっていく。

自由経済では人に収入差があり支出差がある。
ここに土地問題が浮上してくるわけだ。
土地には優劣があるが、作れない。
ある土地を良くする事は長期的には可能だが短期には不可能。
良い土地には人が群がり、そしてそれが金になる。
良い土地に住みそこを良くする人、良い土地に住みそこを悪くする人、
悪い土地に住みそこを良くする人、悪い土地に住みそこを悪くする人。
土地を良くする人を良民と言ったりする。
一方悪い土地をさらに悪くする人の集まりをスラムと言う。
新しい良い土地が常時タダで手に入るのなら今居る土地を良くしようとする
人は少なくなっていくだろう、そして良い土地とは往々にして、
過去に誰かが良くしようと働いて良くしてきた土地であったりする。

悪い土地とは何か。
究極的には住めない土地の事だろう。
一般には経済活動につながらない、お金にならない土地が好ましくない土地
とされ、お金になる土地がこそが好ましいとされる。
良い土地にはお金がかかり、そして良い土地がお金になる。
金が土地になり、土地が金を産む、つまり金が金を産む構図が見て取れる。
この認識はどこまで正しいか。
一つ言える事は客が土地に金を払っているということだろう。
見目の良い土地で買うことを選ぶ。
その結果そこが富む。
富んだ人をより富ませているのは土地ではなく客の選択だ、とも言える。
一人の人間がすべての土地を占有しているしているような場合はさておき。
どうやら自由経済にはその土地を良くしようとする方向性が含まれている
わけではないらしい。

労働契約というものがある。
約束事であり雇用者と被雇用者の双方を縛るものである。
長期のこれが雇用契約である。
自由経済のはずなのに長期束縛。 変だと言えば変だろう。
今日のそれは労働の必要が無くとも給料を払えといった形になっている。
なんでそうなっているのかは主に被雇用者自身が食うためでありそして
被雇用者が被雇用者の家族を食わせるためであったりもする。
先進国と呼ばれる地域の労働環境がこうした形に落ち着くまで、今の状態が
落ち着いていると仮定しての話だが、には闘争とかと称される政争が
続いてきたわけだ。
長期契約という形を取らない場合は個人事業主だとされたりする。
定職に就く、と言ったりもする。
そしてあちこちでこれが社会信用とされる。
現代人は人を信用するにあたって金を見るわけだな。

固定費用。
これが信用経済か。
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イスラム教

2011-06-23 09:25:37 | Weblog
冤罪騒動。
人を裁くことに冤罪は付き物なわけだがこれがどう終わるかというと、
冤罪でした。 ごめんなさい。 この人は犯罪者ではありません。
これ以上の事はない。
冤罪が冤罪だったとされること、これが全てだ。
無実の罪で裁かれた人はそれが判明した後周囲から同情される。
それだけ。
本来、それで十分。
元々周囲がどうあろうと犯罪をしていないことそのものが
当人にとっての正しさだ。
冤罪が冤罪だとされた。
それを、これだけか、と言う人。 原状回復と言う人。
冤罪を中心に運動を始める人たちが居る。
彼らは何なのか。
責める人なのだろう。
罵りあざける対象を必要とする人たち。
彼らにこそ冤罪は、致命的に重要な課題となる。

戦争宣伝って何時ごろからあったのだろうか。
国家規模ものをそれだとしても紀元前の中国人あたりがやっていそうだし
メソポタミアのころからあったのだとしても不思議ではない。
小規模なものは有史以前、それこそ人類社会とともにあったのだろう、多分。
大陸規模のものだとビザンチン帝国による十字軍喚起が最初かもしれない。
イスラム教徒は今日まで続いているその文化と方向性こそが、
キリスト教なのだとする。
イスラム教はキリスト教の鏡であり、イスラム教徒から見るとキリスト教徒が
鏡像なのだろう、彼らは互いに罵り合ってきた。

どうだったか。
今どうおかしいか。
どうおかしいとされているのか。

終末は何回来たかという問題がある。
私は今回ので三回目だと見ている。
あくまで現段階での私見でしかないが。
一回目がローマ時代。 ローマを中心とする地中海世界のユダヤ化と
その後の世界制覇が解となる、はずだったのだが延期となったと。 
二回目がモンゴル。 これに先立つ宋の時代に火薬、印刷、羅針盤の
中国三大発明がされている。
ただしここでの解と人とが見えていない。
ここでも延期となったのだろう。
別の考え方もある。
終末とは大量救済機会のことで、取り残された人たちから見ると
延期されたかのように映るだけなのだと。
畑を広げているだけにも見える。

どっちでもいい。
問題は今我々が地上に居る事でありそこが平和とは言えない状況に
ある事、どの道私はこうすれば良くなるだろうという事を書くだけだ。

イスラム教には問題があるとされている。
三つ挙げる。
・近代国家体制との不整合
・宗教間のいがみ合い
・因習の放置

まず近代国家との不整合なのだがこれ国家をキリスト教式のものだと
思い込みすぎていないか。
主権がどこにあるのかという問題は私個人にとっても悩ましいのだが
それでも神様がなんでもかんでも決めてくれるわけではない。
地上の政治は地上でやるべきで、そのための体制としては
近代国家というものは、それなりに優れてはいる。
イランがその解だと言うかも知れないがウイグル人がメッカ巡礼に
行く事が出来ない状況を国是としてイスラム教を掲げる国が
支持するのはおかしい。

宗教間のいがみ合い。
以前はキリスト教、今はユダヤ教といがみ合っている。
外部からしてみればイスラム教の原点に正統性があるかどうかが
問題の一つだが、私はこれはクライシュ族が道具かどうかが
それとする。
メッカの位置、その時期、ラマダンの断食が赤道に横のつながりを
もたらしている点、地中海を挟んでキリスト教と対峙した状況が
ユダヤ人に交易の場を提供した事などから道具だったのだと考える。

因習の放置。
これは西洋人が指摘している部分の多くが正しいのではないかと見る。
私はこれをイスラムが身内の部族因習の除去をあきらめた結果
それがそのまま秩序として残ってしまったと。
現在のイスラム教徒は死んだイスラムを連帯の道具として利用している、
ただそれだけ。
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