☆正直、第一作目に比べると新鮮さは失われていた。
未知の存在と言う観点がなくなっていたからだが、それはしょうがあるまい。
ただ、予告編では、未知の侵略者の雰囲気(天空からの落下物で表現)がプンプンしていたからなあ。
最初に欠点を語っておけば、マイケル・ベイの初期作品の悪いクセ「大雑把」「映像に拘り過ぎての情報欠落」が随所に見られた。
それらが、観つつも、こころの片隅で「解せなさ感」を蓄積させるのだ。
しかし、見ていてふと我にかえると、腕に鳥肌が立ち続けていたりするので、かなり興奮し楽しんで観ていたのだろう。
◇
先ず、私には、機械生命体の「法則」と言うものが分からなかったのだ。
メガトロンが復活したが、そもそも、彼らは「命」のやり取りが可能な者たちだったのか?
可能ならば、何で、前作で、オプティマスたちはメガトロンを完全に破壊しないで、どこぞの海溝に沈めたのか?
また、元々の命は一つで、それらが機械と融合しトランスフォーマーとなるわけだが、何で大きいのやら小さいのやらがあるのだろう。
まあ、人間も個体差があるから、そう思えばいいけど…。
また、機械生命体は、何故、ずっと同じマシーンでいるのか?
例えば、バンブルビーなどは、カマロ車でいるよりも、それこそ戦闘機形態に変わった方が戦いにおいて勝手が良いと思うのだ。
今回、双子の仲間トランスフォーマーが出てくるが、こいつらは、最初、アイスの販売車の形態なのだが、後にそれぞれシボレー車になる。
つまり、形態の変身も可能らしいのだが、じゃあ、何でオプティマスはトレーラーのままなのだろう。
どう考えても、陸上移動機械にしても戦車などのほうが戦いやすいだろう。
一作目では、地球に来た彼らが、今回は最初に変化した機械形態で戦うのだろうと認識したので納得したものだが…。
作中、太古のトランスフォーマー・ジェットファイアーが「形態変化」について語ってくれてはいるが、それは私の求める答えになっていない。
まあ、個々のトランスフォーマーの「趣味」っちゅうか「ファッションセンス」と思えば、合点はいく^^
ジェットファイアーは、かなりの昔から眠りについていたようなのだが、何で、最新鋭(なんだよね?)偵察機ブラックバード形態なのだろう(顔のジャラジャラがヒゲみたいで、柄のついた車輪を杖みたいにしているのは非常によい^^)。
また、このジェットファイアーは、主人公やトランスフォーマーたちをエジプトまでテレポテーションさせるのだが、トランスフォーマーにはそんな力があったのか?
あくまでも、「機械生命体」「固有のマシーン形態or人型ロボット間での変身」・・・、その二つが、この物語のベーシックな空想作品的特徴であり、物理的衝撃で壊れもするし、死にもするのが不文律…、だが、超能力などは持っていなかったはずだ。
◇
そして、物語の冒頭では、主人公の体にくっついていた、前作のキーアイテム・キューブの破片によって、主人公の家電がロボットに変身して暴れまわるのだが、これも意味が分からない。
無意識で動き出すのなら、キューブの不可思議なパワーとして理解できるが、意思をもって、あたかも「グレムリン」みたいに悪戯をするのである。
キューブには、そんな万能の力があったのか?
例えば、「デスノート」は、通常ではあり得ない力を秘めていたが、その力には厳密な「ルール」があった。
だが、今回の『トランスフォーマー:リベンジ』の如くルールの提示なく、都合良く適当に話を展開させてしまったら、大人はソッポ向いてしまうぞ。
今回は、どうにか好意的な解釈を行い得るが、今後(次作)はちゃんとして欲しい。
◇
もちろん、そういった特撮シークエンスは、通常作品以上の出来であり、私の書いたことは、今後の釘刺しに過ぎない。
予告編で圧倒されたデモリッシャー(超巨大一輪車野郎)は、プロローグでの敵に過ぎなかったのだが、それでも上海のハイウェイをデストロイ疾走するさまは秀逸の出来であった。
でも、今回の敵ボスキャラ・フォーレンの弱さは頂けなかった。
そのヴィジュアルも「エイリアン」にクリソツで、「エイリアン」の造型の恐怖の普遍さを再認識させてくれただけだったし。
まあ、仕事場でも、管理者より現場リーダーのほうが強いってことで、トランスフォーマーの最強適役はメガトロンでよろしいでしょうか?
◇
私はなによりも、実写パートが良く出来ていたので感動している。
序盤は、相変らずコメディ要素がふんだんで、大学の寮に入るサムに対しての両親の対応の違いが強調される。
家が破壊されるのも、「お約束」感があり、大笑いだ^^
犬は一匹増えて、盛りのついた犬のギャグで笑わせてくれる。
この「盛りのついたアクション」だが、後で「ヘコヘコ」と活きる。
始まった大学生活でのコメディ要素も楽しい。
普通、この手の作品は、アクションパート以外はダレ場になりがちだが、この作品は面白い。
もし、プロデュースのスピルバーグが監督であったら、そこには「甘ったるさ」が出てしまい、ギャグの切れ味や、女子大生やヒロイン・ミカエラのエロさは出なかっただろう。
そして、お母さんの、いかにも「おばさん」的な立ち居振る舞いの「可愛さ」も普通になってしまったことだろう。
それがマイケル・ベイ監督の功であり、主人公の両親の毒っ気、そして、前作で敵役だったシモンズ捜査官の現在の切なさが、クライマックスで全く別の様相を呈し、私の涙腺を緩めるのだ。
特に、サムの両親は、家を出て大学の寮に入る息子に対し、父親は「はよ行け」、母親は「息子が出て行ってしまう、オヨヨ;;」てな対応だったのに、
最終決戦で、息子が命を賭けようとするときには、父親は「絶対に行かせない!」と言い張り、母親が「行かせてあげましょう・・・」となる。
こりゃ、泣けるよ。
で、更に、「私はついていく!」と言うミカエラに、「分かった」と答える展開も素晴らしい^^
◇
また、地球上における、オプティマスらの善きトランスフォーマーの存在が、悪いトランスフォーマーの存在を引きつけている! と言う大統領補佐官の批判的言説に対してのオプティマスの返答もいかしている。
「では、私たちが去ったら、敵もいなくなってくれるのかな?」
イラク政策における米軍のあり方を髣髴とさせてくれるじゃないか?^^v
私は、意志を持った巨大なトランスフォーマーには、オプティマスのような哲学的な言説を求める。
だから、私は、表情豊かな芸達者だが、ペットみたいな仕草のバンブルビーにはちょいと違和感が起こる。
世界最速上映参加認定証^^v
(2009/06/19)
未知の存在と言う観点がなくなっていたからだが、それはしょうがあるまい。
ただ、予告編では、未知の侵略者の雰囲気(天空からの落下物で表現)がプンプンしていたからなあ。
最初に欠点を語っておけば、マイケル・ベイの初期作品の悪いクセ「大雑把」「映像に拘り過ぎての情報欠落」が随所に見られた。
それらが、観つつも、こころの片隅で「解せなさ感」を蓄積させるのだ。
しかし、見ていてふと我にかえると、腕に鳥肌が立ち続けていたりするので、かなり興奮し楽しんで観ていたのだろう。
◇
先ず、私には、機械生命体の「法則」と言うものが分からなかったのだ。
メガトロンが復活したが、そもそも、彼らは「命」のやり取りが可能な者たちだったのか?
可能ならば、何で、前作で、オプティマスたちはメガトロンを完全に破壊しないで、どこぞの海溝に沈めたのか?
また、元々の命は一つで、それらが機械と融合しトランスフォーマーとなるわけだが、何で大きいのやら小さいのやらがあるのだろう。
まあ、人間も個体差があるから、そう思えばいいけど…。
また、機械生命体は、何故、ずっと同じマシーンでいるのか?
例えば、バンブルビーなどは、カマロ車でいるよりも、それこそ戦闘機形態に変わった方が戦いにおいて勝手が良いと思うのだ。
今回、双子の仲間トランスフォーマーが出てくるが、こいつらは、最初、アイスの販売車の形態なのだが、後にそれぞれシボレー車になる。
つまり、形態の変身も可能らしいのだが、じゃあ、何でオプティマスはトレーラーのままなのだろう。
どう考えても、陸上移動機械にしても戦車などのほうが戦いやすいだろう。
一作目では、地球に来た彼らが、今回は最初に変化した機械形態で戦うのだろうと認識したので納得したものだが…。
作中、太古のトランスフォーマー・ジェットファイアーが「形態変化」について語ってくれてはいるが、それは私の求める答えになっていない。
まあ、個々のトランスフォーマーの「趣味」っちゅうか「ファッションセンス」と思えば、合点はいく^^
ジェットファイアーは、かなりの昔から眠りについていたようなのだが、何で、最新鋭(なんだよね?)偵察機ブラックバード形態なのだろう(顔のジャラジャラがヒゲみたいで、柄のついた車輪を杖みたいにしているのは非常によい^^)。
また、このジェットファイアーは、主人公やトランスフォーマーたちをエジプトまでテレポテーションさせるのだが、トランスフォーマーにはそんな力があったのか?
あくまでも、「機械生命体」「固有のマシーン形態or人型ロボット間での変身」・・・、その二つが、この物語のベーシックな空想作品的特徴であり、物理的衝撃で壊れもするし、死にもするのが不文律…、だが、超能力などは持っていなかったはずだ。
◇
そして、物語の冒頭では、主人公の体にくっついていた、前作のキーアイテム・キューブの破片によって、主人公の家電がロボットに変身して暴れまわるのだが、これも意味が分からない。
無意識で動き出すのなら、キューブの不可思議なパワーとして理解できるが、意思をもって、あたかも「グレムリン」みたいに悪戯をするのである。
キューブには、そんな万能の力があったのか?
例えば、「デスノート」は、通常ではあり得ない力を秘めていたが、その力には厳密な「ルール」があった。
だが、今回の『トランスフォーマー:リベンジ』の如くルールの提示なく、都合良く適当に話を展開させてしまったら、大人はソッポ向いてしまうぞ。
今回は、どうにか好意的な解釈を行い得るが、今後(次作)はちゃんとして欲しい。
◇
もちろん、そういった特撮シークエンスは、通常作品以上の出来であり、私の書いたことは、今後の釘刺しに過ぎない。
予告編で圧倒されたデモリッシャー(超巨大一輪車野郎)は、プロローグでの敵に過ぎなかったのだが、それでも上海のハイウェイをデストロイ疾走するさまは秀逸の出来であった。
でも、今回の敵ボスキャラ・フォーレンの弱さは頂けなかった。
そのヴィジュアルも「エイリアン」にクリソツで、「エイリアン」の造型の恐怖の普遍さを再認識させてくれただけだったし。
まあ、仕事場でも、管理者より現場リーダーのほうが強いってことで、トランスフォーマーの最強適役はメガトロンでよろしいでしょうか?
◇
私はなによりも、実写パートが良く出来ていたので感動している。
序盤は、相変らずコメディ要素がふんだんで、大学の寮に入るサムに対しての両親の対応の違いが強調される。
家が破壊されるのも、「お約束」感があり、大笑いだ^^
犬は一匹増えて、盛りのついた犬のギャグで笑わせてくれる。
この「盛りのついたアクション」だが、後で「ヘコヘコ」と活きる。
始まった大学生活でのコメディ要素も楽しい。
普通、この手の作品は、アクションパート以外はダレ場になりがちだが、この作品は面白い。
もし、プロデュースのスピルバーグが監督であったら、そこには「甘ったるさ」が出てしまい、ギャグの切れ味や、女子大生やヒロイン・ミカエラのエロさは出なかっただろう。
そして、お母さんの、いかにも「おばさん」的な立ち居振る舞いの「可愛さ」も普通になってしまったことだろう。
それがマイケル・ベイ監督の功であり、主人公の両親の毒っ気、そして、前作で敵役だったシモンズ捜査官の現在の切なさが、クライマックスで全く別の様相を呈し、私の涙腺を緩めるのだ。
特に、サムの両親は、家を出て大学の寮に入る息子に対し、父親は「はよ行け」、母親は「息子が出て行ってしまう、オヨヨ;;」てな対応だったのに、
最終決戦で、息子が命を賭けようとするときには、父親は「絶対に行かせない!」と言い張り、母親が「行かせてあげましょう・・・」となる。
こりゃ、泣けるよ。
で、更に、「私はついていく!」と言うミカエラに、「分かった」と答える展開も素晴らしい^^
◇
また、地球上における、オプティマスらの善きトランスフォーマーの存在が、悪いトランスフォーマーの存在を引きつけている! と言う大統領補佐官の批判的言説に対してのオプティマスの返答もいかしている。
「では、私たちが去ったら、敵もいなくなってくれるのかな?」
イラク政策における米軍のあり方を髣髴とさせてくれるじゃないか?^^v
私は、意志を持った巨大なトランスフォーマーには、オプティマスのような哲学的な言説を求める。
だから、私は、表情豊かな芸達者だが、ペットみたいな仕草のバンブルビーにはちょいと違和感が起こる。
世界最速上映参加認定証^^v
(2009/06/19)