☆私は常々、「潜水艦物に外れなし」を語っていた者であり、賛否両論のある『ローレライ』も楽しんで観たものだ。
しかし、この『真夏のオリオン』は厳しかった。
その、作品で描かれた戦後左翼風潮的な戦争観も、国家観を無視した「私情」主義さえも、私は許そう。
だが、何よりも、潜水艦物と同義の「潜水艦という密室内での敵(水面の、もしくは同じく水中の、を問わず)との息詰まる<勝負>の緊張感」というものが皆無なのである。
それさえあれば、私はこの作品を賞賛も出来た。
銃後の女や子供との関係(戦う為の動機)などは、適当でも良いのだ。
そんなものは、観ているこちらが脳内補完すべきものだ。
しかし、この作品は、そちらがメインであった・・・。
まあ、北川景子の泣き顔キモカワ№1が見れたからいいけど^^;
<回天>の乗員たちにさえも、「自分は何で命を捨ててまでも戦うのか」と言う思考の帰結である国家観が全く見られなかったのには驚いた^^;
◇
評判の悪い玉木宏の艦長だが、私は頑張っていたと思う。
与えられた脚本の中で、独自性を持つ艦長を必死で表現していた。
他の役者も頑張っていた。
汗ダクダクで頑張っていた。
しかし、問題は、その「汗ダクダク」の意味がこちらの感情に伝わってこなくて、「汗ダクダクで、アシスタントさん、いい仕事してるな。全てが噛みあえば、佳作になれる可能性もあったんだな」と思わせてしまうところに問題がある。
丹念に、密室での長時間の経過を描いていけば、「汗ダクダク」姿もこちらの感情に直結したはずなのだ。
・・・映画文法を会得していない作り手だから、かような作品になってしまった。
◇
物語の序盤から、描写の経過の欠落がある。
例えば、主役潜水艦<イー77>は、魚雷を発射する。
魚雷は目標の米タンカーを炎上させる。
しかし、その命中している瞬間を描写しない。
敵タンカーはいつの間にやら、燃えている。
映画的に全く面白くない。
例えば、敵駆逐艦が強襲してくる。
遠景の駆逐艦・・・、そして、次のシーンでは、駆逐艦の後甲板から水雷が放たれる。
遠景の駆逐艦が、いきなり水雷を発射している描写に一足飛びなのだ。
わけが分からないのである。
映画文法としては…、っちゅうか、物語の最低限に使用されなくてはならない説明において、その経過には、必ず敵駆逐艦の全貌を見せるカットがなくてはならないはずなのだが。
私は、よっぽど、予算が足りなくて、爆破シーンや駆逐艦の俯瞰映像が撮れないのかと思ったのだが、その後にはちゃんとあるのだ。
そういった、踏まえておかなくてはならない描写の欠落が多数ある。
私が、クリント・イーストウッドに偉大さを感じているのは、彼の作品は、徹底的に散文の産物であることなのだ。
丹念に描写を積み重ねて、その描写描写は「ドット(点)」に過ぎないけど、ドットの集積で芸術作品へと昇華される。
だが、『真夏のオリオン』の作り手は、物語の肝である、感情を揺るがす勝負の場面に「分断されたドット」を配し続ける。
故に、全く、リズム感の欠如した、つまらない戦いになってしまっている。
おそらく、製作のテレビ朝日に、「反戦」「戦争の犠牲になる女・子供」「何よりも大切な命の尊さ」の強調を促されたのだろう。
別にそれでもいいんだけど、勝負はゲーム的に楽しませて欲しい(『ローレライ』にはそれがあった)。
所詮は、エンターテイメント作品なんだからよお!
妙に、「反戦」「戦争の犠牲になる女・子供」「何よりも大切な命の尊さ」に重きを置いてしまった主人公の個性であるが故に、
後に、艦長が戦死した部下の死体そのものを「囮(おとり)」に使うときに、私は、「なんて人非道な男なんだ!」とゾッとした。
艦長に、あんなにもの戦後民主主義的個性を付加させなければ、その作戦もありだったのだが。
◇
また、対決する両艦長の駆け引きも不気味だ。
あらゆる可能性の検討もなく、よくお互いを知らないのに、「奴はいる」とか「なかなかやってくれる」、「奴はそんなことはしない」とか「奴ならそう考えるだろう」とか、確信的な物言いで訳知り顔で言うのである。
これが、デスラーと古代進であったり、マリュー艦長とバジルール少佐の激突ぐらいの関係があったらいいのだが、倉本艦長も駆逐艦パーシバルの艦長も因縁が全くないのに、いきなり、お互いが旧知の間柄のように、結果オーライの「超」心理戦を行なうのである。
パーシバルの艦長はなかなかいい演技をかましていたけど、腐った脚本・演出の中での、相手を見抜いたような確信的な表情の演技は、
年末によくやる番組での、UFO研究家の自信満々の言説(笑)を髣髴とさせた。
◇
ところで、作中で、江田島の海軍兵学校みたいな建物が出てくるんだけど、あれはロケしたのでしょうか?
英霊たちは、みな寛大なので、この作品も歓迎すると思いますけど・・・。
(2009/06/16)
しかし、この『真夏のオリオン』は厳しかった。
その、作品で描かれた戦後左翼風潮的な戦争観も、国家観を無視した「私情」主義さえも、私は許そう。
だが、何よりも、潜水艦物と同義の「潜水艦という密室内での敵(水面の、もしくは同じく水中の、を問わず)との息詰まる<勝負>の緊張感」というものが皆無なのである。
それさえあれば、私はこの作品を賞賛も出来た。
銃後の女や子供との関係(戦う為の動機)などは、適当でも良いのだ。
そんなものは、観ているこちらが脳内補完すべきものだ。
しかし、この作品は、そちらがメインであった・・・。
まあ、北川景子の泣き顔キモカワ№1が見れたからいいけど^^;
<回天>の乗員たちにさえも、「自分は何で命を捨ててまでも戦うのか」と言う思考の帰結である国家観が全く見られなかったのには驚いた^^;
◇
評判の悪い玉木宏の艦長だが、私は頑張っていたと思う。
与えられた脚本の中で、独自性を持つ艦長を必死で表現していた。
他の役者も頑張っていた。
汗ダクダクで頑張っていた。
しかし、問題は、その「汗ダクダク」の意味がこちらの感情に伝わってこなくて、「汗ダクダクで、アシスタントさん、いい仕事してるな。全てが噛みあえば、佳作になれる可能性もあったんだな」と思わせてしまうところに問題がある。
丹念に、密室での長時間の経過を描いていけば、「汗ダクダク」姿もこちらの感情に直結したはずなのだ。
・・・映画文法を会得していない作り手だから、かような作品になってしまった。
◇
物語の序盤から、描写の経過の欠落がある。
例えば、主役潜水艦<イー77>は、魚雷を発射する。
魚雷は目標の米タンカーを炎上させる。
しかし、その命中している瞬間を描写しない。
敵タンカーはいつの間にやら、燃えている。
映画的に全く面白くない。
例えば、敵駆逐艦が強襲してくる。
遠景の駆逐艦・・・、そして、次のシーンでは、駆逐艦の後甲板から水雷が放たれる。
遠景の駆逐艦が、いきなり水雷を発射している描写に一足飛びなのだ。
わけが分からないのである。
映画文法としては…、っちゅうか、物語の最低限に使用されなくてはならない説明において、その経過には、必ず敵駆逐艦の全貌を見せるカットがなくてはならないはずなのだが。
私は、よっぽど、予算が足りなくて、爆破シーンや駆逐艦の俯瞰映像が撮れないのかと思ったのだが、その後にはちゃんとあるのだ。
そういった、踏まえておかなくてはならない描写の欠落が多数ある。
私が、クリント・イーストウッドに偉大さを感じているのは、彼の作品は、徹底的に散文の産物であることなのだ。
丹念に描写を積み重ねて、その描写描写は「ドット(点)」に過ぎないけど、ドットの集積で芸術作品へと昇華される。
だが、『真夏のオリオン』の作り手は、物語の肝である、感情を揺るがす勝負の場面に「分断されたドット」を配し続ける。
故に、全く、リズム感の欠如した、つまらない戦いになってしまっている。
おそらく、製作のテレビ朝日に、「反戦」「戦争の犠牲になる女・子供」「何よりも大切な命の尊さ」の強調を促されたのだろう。
別にそれでもいいんだけど、勝負はゲーム的に楽しませて欲しい(『ローレライ』にはそれがあった)。
所詮は、エンターテイメント作品なんだからよお!
妙に、「反戦」「戦争の犠牲になる女・子供」「何よりも大切な命の尊さ」に重きを置いてしまった主人公の個性であるが故に、
後に、艦長が戦死した部下の死体そのものを「囮(おとり)」に使うときに、私は、「なんて人非道な男なんだ!」とゾッとした。
艦長に、あんなにもの戦後民主主義的個性を付加させなければ、その作戦もありだったのだが。
◇
また、対決する両艦長の駆け引きも不気味だ。
あらゆる可能性の検討もなく、よくお互いを知らないのに、「奴はいる」とか「なかなかやってくれる」、「奴はそんなことはしない」とか「奴ならそう考えるだろう」とか、確信的な物言いで訳知り顔で言うのである。
これが、デスラーと古代進であったり、マリュー艦長とバジルール少佐の激突ぐらいの関係があったらいいのだが、倉本艦長も駆逐艦パーシバルの艦長も因縁が全くないのに、いきなり、お互いが旧知の間柄のように、結果オーライの「超」心理戦を行なうのである。
パーシバルの艦長はなかなかいい演技をかましていたけど、腐った脚本・演出の中での、相手を見抜いたような確信的な表情の演技は、
年末によくやる番組での、UFO研究家の自信満々の言説(笑)を髣髴とさせた。
◇
ところで、作中で、江田島の海軍兵学校みたいな建物が出てくるんだけど、あれはロケしたのでしょうか?
英霊たちは、みな寛大なので、この作品も歓迎すると思いますけど・・・。
(2009/06/16)