大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

南足柄 東山北駅界隈

2021-09-25 | 小田原

香集寺から国道246を横切ってJR御殿場線のガード(中里函渠)を潜った先の左側角に大正十三年と比較的新しい馬頭観音と道祖神があり、写真を撮っていたら、ゴミを出しに来たお婆さんと眼があった。

近所に念仏塔がないか聞いてみたら、御殿場線に沿って30mほどの角にあると親切に連れて行ってくれた。



六字名号塔、廻国供養塔、庚申塔、地蔵菩薩があった。六字名号塔は小田原市東町の道場院門前にある芝増上寺三十六世祐天上人と同じ書体だったが、名号塔は風化で摩滅しており、碑表文字は、一部しか判読できなかった。六字名号の右側に金躰寺、左側にはかすかに祐天との文字が読みとれたが、道場院門前にある六字名号塔の祐天上人の花押と異なるのが気になった。嫁に来た時には、まだ念仏講が在ったというので、昔、山北向原にあった金躰寺の事を聞くと、この辺りが、むかし金躰寺があった処で、この奥にお堂があると連れて行ってくれた。この金躰寺は新編相模風土記稿に「西蓮山向原院と号す。浄土宗(足柄下郡矢作村春光院末)寛永十二年(1635)に草創、僧吟道を開山す本尊弥陀を安す」とある。いつ廃寺となったがはっきりしないが、皇国地誌村誌川村向原に維新の革命に方りて廃せらるとある、慶応四年(1868)の神仏分離による廃仏毀釈により廃寺となったのだろうか。1、2分だったが、しらない家の庭先を抜けてドンドン進むのでビックリしてしまった。ちいさな建物とその傍に無縫塔、地蔵菩薩、寛文七年板碑(供養塔?)があった。

建物の中に、阿弥陀如来像、脇侍に観世音菩薩、勢至菩薩を左右に従えた三尊形式の仏像が安置されていた。この石仏の上の道脇に左から不動明王、六字名号塔、富士講碑、西山孝行?大我碑の石碑が並んでいた。


唯念の六字名号塔だったが、左側面に安政五戊午年(1858)九月大安日 行念六十七歳とある。行念って名前なのか、宗教用語なのか検索で調べてしまった。年齢の入っている名号塔で計算しても満年齢と数え年が混ざっているのか、唯念の生まれが寛政元年なのか、寛政三年(1791)なのかはっきりしない。唯念は明治十三年(1880)八月の死去と伝わる。

朝、出かけた山市場にあった行幹の六字名号塔も安政五(1858)年に建立されたもので、安政五年五月、長崎に寄港した米艦乗組員がもたらしたコレラが東に広まった時期で、七月下旬には江戸に達したと言われている。伊予松山藩主松平隠岐守勝成参府のおり、小田原宿にてお供の面々、二,三十人即死しそれから小田原に流行したと伝わる。このコレラ騒動で、人々は流行り病を除こうと、念仏真言題目、道祖神祭り、正月行事の復活など氏神の祭祀で対応しようとした。西相模に安政五年に造られた石仏が多いのもこんな理由があるのかも知れない。山北向原の薬師堂に向かう。途中東山北駅東側のがらんと何もない広場前のお堂に道祖神(向原1875−2)、

そこから100m位に本村薬師堂(山北町向原1881)があった。




地蔵菩薩、如意輪観音、馬頭観音、道祖神、反対側に庚申塔が残されていた。もともと、これらの石仏はどこに祀られていたのだろうか。

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