根府川の寺山神社から130m程坂道をあがると、左側に下りる急坂がある。
ここがちょうど新幹線の片浦トンネルと南郷山トンネルの間にあたり、海岸側に東海道線の白糸川橋梁がみえる。急な坂道を進むと斜面に建つ岩泉寺の本堂の境内にでる。
海岸側からの石段
新編相模風土記稿に「岩泉寺 巨岳山と号す。曹洞宗(早川村海蔵寺末)開山通國門泰(本寺十三世の僧)慶長九年(1604)建(旧家長十郎の家系には元和七年先代広井長十郎重次開基すとあり)」さらに「當寺昔は海辺にありしが、萬治二年(1659)の洪水に流失して、同五年今の処へ転す(長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此地に転ずと云)」とある。根府川村名主広井長十郎と村民が寺の維持費、畑七畝二歩・山林三町歩を寄進し本堂庫裏を再建したという。金堂前の急な石段の途中に手前から寛文七年(1667)建立の観蓮社縁誉至道上人碑、安政五年(1858)建立の秀学六字名号塔、文政元年(1818)と言われる広井長十郎が建てた「南無大師遍照金剛 木食観正」碑があった。
寺山神社の前にあった釈迦堂入口の石標につられて急な石段を下りて行った。根府川は小さな集落でどこを通っても白糸川にぶつかってしまう。釈迦堂を探して海岸の国道まで出てしまった。
帰り道のJRの白糸川橋梁真下の柵の陰に入口の案内板があった。私有地みたいな所を進むとgoogleマップに表示のない橋が架っていた。橋から20mほど先にみえる小屋がマップに白糸川の釈迦如来とあるのが釈迦堂だった。
お堂は半地下で岩に釈迦如来像があった。元自治会長の内田一正氏による「白糸川の釈迦如来」の説明があった。広井家文書によると、広井家二十二世広井長十郎重友の代に度重なる地震への不安から村の安泰を祈り、明暦二年(1658)、当時の岩泉寺境内の岩盤に像立し、右側に彫られた「寛文九歳七月十二日 元喜道祐庵主」は長十郎重友の命日と戒名だという。その左に「普明暦二歳仲秋月」「広井左衛門敬」と彫られているという。岩泉寺は万治二年(1659)の大洪水で万治三年から五年にかけて現在の高台に移転し、岩盤に彫られた釈迦如来像はそのまま残されたという。また子の釈迦像は弘法大師の作とも伝わっている。明和三年(1766)に釈迦如来像が野ざらしのため、お堂建設の願いが出されている。残念ながら釈迦如来像の周りに彫られた年号や名前は全く気が付かなかった。風土記稿は旧家として広井氏家系を載せている。上総介平良兼を遠祖として、良兼五代孫広井太郎致房を初代として、二十一代が寛永十二年江戸城普請採石を任され、岩泉寺開基の長十郎重次、その次の記載が重次孫宅左衛門重光(二十三代)となっている。風土記稿に「岩泉寺、當寺昔は海辺にありしが、万治二年の洪水に流失して同五年(1662)今の処へ転す、長十郎家系に重次の孫左衛門重光の時、己が持地を寄附して此の地に転ずと云」とあり、二十二代宗左衛門重友一人だけが風土記稿から抜けている。重友の命日が寛文九年(1669)だとすると、万治五年(1662)、寺に持地を寄附した時の広井家の家長は誰だったのだろうか。寛永九年(1632)、正保四年(1647)、慶安元年(1648)の地震、万治二年(1659)の大洪水など度重なる災害や、岩泉寺無住の期間享保年間(1716~1735)を考えると、あまり古文書も残されていないように思われる。
駅に戻る途中に日正上人の題目塔があった。
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