「妓王寺は浄土宗にして往生院となづく、いにしえは西の山上にあり、後世今の地にうつす。本尊は阿弥陀仏にして、脇士は観音勢至なり。清盛入道浄海の塔、祇王(廿一歳)祇女(十九歳)仏(十七歳)刀自(祇王祇女の母四十五歳)の塔も庵室の南にあり」とは安永九年(1780)に刊行された都名所図会にある祇王寺の解説文。家に戻って、あわてて平家物語を読んだ。「後白河法皇の長講堂の過去帳に祇王、祇女、佛、とぢ等が尊霊と四人一所に入られたり」と説明している。白拍子の祇王は実在の人物らしいが、それにしても平家物語の作者は御所内にあった持仏堂の過去帳の内容をどうして見ることができたのだろうか。物語は、祇王が十七歳で平清盛に寵愛を受け、三年経った時に十六歳の佛が現れ、祇王は暇を出され、出家して尼になり、嵯峨の奥なる山里に柴の庵を引結び、夕日の影の西の山の端に隠れるのを見ながら、日の入りたまう所に西方浄土があるのだろう、と念佛を唱える。まさに愛憎確執、栄枯盛衰の仏教説話で、穢土を厭い浄土を願い朝夕仏前に花香を供え、余念なく願い、尼たちはそれぞれ往生の願を遂げたと結んでいる。
化野念仏寺から二尊院あたりまでを「化野:あだしの」と呼び、古より埋葬の地であった。東の鳥部野と並び西の化野が人生の無常をあらわし、もののあわれを感じさせる場所として知られるようになったが、祇王寺は明治初年に廃寺となり、残された本尊や木像は大覚寺に移され、明治二十八年に祇王寺の旧跡再建が計画された。京都府知事北垣国道の別荘等の寄附により明治三十五年、真言宗大覚寺の末寺として再興された。京都には世界遺産の苔寺(西芳寺)など、苔で有名な庭園はいくつかあるが、写経を強制されるどこかの寺よりは、祇王寺の庭の苔がよっぽど素直で美しい。
仏間には、本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されている。
庵横奥に江戸中後期の漢学者巌垣龍湲(彦明)撰文の「妓王妓女佛刀自之旧跡」の石標がある。宝筐印塔が祇王、祇女、刀自の墓、五輪塔が清盛供養塔と言われている。
瀧口寺は祇王寺の南隣にあり、新田義貞首塚がある。ここは往生院子院の三寳寺跡にあたり、安永九年(1780)に刊行された都名所図会に瀧口寺として記載があるが、この寺も明治維新後の廃仏毀釈により廃絶した。
「新田義貞首塚、祇王寺の傍にあり、義貞の寵姫匂當内侍義貞が北国にて戦没せし後、往生院の辺(一説に、もと祇王寺の南に在し三寳寺の東隣は其古跡なりと)に隠れ、髪を薙て尼となり義貞の塔をここに建しと。されど其塔は跡なくなりて、明治二十七年新に一碑を建て、題して贈正二位新田公首塚碑という、石柵を繞らし厳然たり」と明治三十六年発行の「京都名勝記」に記載がある。京都市の説明板に「近年、有志によって庵室が建てられ清涼寺内の史跡となって甦った。本堂には三宝寺遺物である滝口入道と横笛の木像を安置している。云々」とある。
庵に向かう庭の途中に 昭和七年に建てられた「滝口と横笛の歌問答旧跡 三寳寺歌石」があった。新田公首塚碑の横には、昭和七年五月作曲記念 杵屋佐吉一門佐門会建之の勾当内侍の供養塔があり、庵を建て瀧口寺として再建されたのもこの頃だったのだろうか。諸事情により葺き替えが遅れているという葦葺の屋根の荒廃ぶりがすごい。平家物語の儚さや無常観を感じ二念を継がないわけにはいかなかった。
参考
妓王妓女佛刀自之旧跡 石標文
性如禅尼 承安二年壬辰八月十五日寂
妓王妓女仏刀自之旧跡 右清盛塔 左四尊尼塔
明和八年辛卯正当六百年忌往生院現住法尼法専建之
祇王祇女仏三女後先得平相国寵二祇之母曰
刀自四女屏跡此地脩浄業而終焉如其履歴既
久膾炙人口且載在平語夫祇王之脱塵仏嬢之
頴悟纏足中有斯人不亦奇乎而以鴬舌艶歌開
導人心令其功徳斎海潮妙音者亦又奇矣於戯
四女薄命世人憾焉然由今観之則彼実以此證
道知名所謂薄命一時顕栄千載者非邪去年明
和辛卯距四女歿幾乎六百年守塚女僧法専為
之修追福且建碑於墓側求余記因記其趣以示
来者云
明和壬辰正月甲子 平安 巌垣彦明誌
岡部長啓書
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