兼六園の中にある日本で最初だという噴水を、しばらく眺めていた。
この噴水を兼六園では文久元年(1861)に造られた日本最古のものだとしていたが、水戸の玉龍泉の方が天保十三年(1842・偕楽園の開園)に造られもので、古いのではといわれるようになり、兼六園側ではこの噴水は十九世紀中頃につくられたと変更している。余談だが偕楽園の名は「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」(孟子 見梁惠王、、、古之人與民偕樂、故能樂也、、、、民欲與之偕亡。雖有臺池鳥獸、豈能獨樂哉)から採っている。兼六園の噴水は霞ヶ池との高低差で自噴させている。霞ヶ池がいつ造成されたかハッキリしないが、この池に水を供給しているのが寛永九年(1632)完成の辰巳用水で、伏越(逆サイホン)の原理を使い城中への導水が目的で造られた。城の東南(辰巳)、犀川上流の上辰巳に東岩取水口を設け、四kmは暗渠とした延長十二kmを手掘りで造っている。加賀藩史料によると天保八年(1830)八月、竹沢御庭の泉水に恒例の鮎簗を設けることを命じ、前田斎泰考案による竹沢御庭の泉水が出来た事が記載されている。鮎簗を設けることが出来る竹沢御庭の泉水に、霞ヶ池への辰巳用水からの給水が出来るようにして何らかの形で自噴の噴水を創ったのではないだろうか。
金沢市紀要に「兼六園は廃藩の後四周の門牆(もんしょう:入口)を撤し各処に登路を作り、明治七年開放して萬人偕楽の処としてから之を兼六園又は金沢公園と呼んだ。内務省は大正十一年之を名勝に指定し金沢公園と称へたが間もなく兼六園の旧称に複せしめた」とある。それにしても蓮池御庭を兼六園と称したのは何時の時代なのか、それとも明治になってから兼六園と称したのだろうか。
兼六園から天徳院に向かう。途中、辰巳用水の一部が残っていた。
天徳院は元和九年(1623)、加賀三代藩主前田利常は正室珠姫菩提のため、金沢城の東、小立野台に四万坪の広大な敷地に正室珠姫の法号である天徳院殿乾運淳貞大禅定尼に因んで天徳院を創建。山号は金龍山、開山は巨山泉滴大和尚。本堂の一角で珠姫物語を六体の「からくり人形」を上演している。
別料金で黙照禅庭と呼ばれる回遊式庭園を見ることが出来る。どのへんが黙照禅の庭なのか理解するのは難しい。一切の悟りを求めず、ただ黙々と坐するなら、庭は不必要になってしまう。何ものも求めずひたすらに坐禅しなければならない禅宗のお寺に立派な庭が多いのはどのような理由があるのだろうか。
元気いい中年女性の団体がドカドカ入ってきたので早々に退散する。それにしても、本堂の内陣までズカズカ入って行くのはなんとかならないだろうか。内陣など見ても次の観光地に行けば何も覚えていないだろうに、と思う。
石仏群があるというので天徳院から歩いて数分の如来寺に寄る。
化野念仏寺のような思い描いていた石仏群とはだいぶ違っていた。
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