大佗坊の在目在口

見たり、聞いたり、食べたり、つれづれなるままに!!

赤い靴

2014-02-15 | その他

赤い靴 野口雨情
[赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて 行っちゃった
 横浜の 埠頭から 船に乗って 異人さんに つれられて 行っちゃった
 今では 青い目に なっちゃって 異人さんのお国に いるんだろ
 赤い靴 見るたび 考える 異人さんに 逢うたび 考える] 
                  (小学女生・大正十年十二月号発表)

小さい時、云う事を聞かないとよく「異人さんに連れられて青い目に成っちゃうよ」と脅かされた。メロディーや歌詞を聴くと何となく物悲しくなる童謡で、小さな子が履いている赤い靴を見るのが嫌いだった。東京港区麻布十番に「きみちゃん」像があります。
 
野口雨情により書かれた詩「赤い靴」は大正11年、本居長世の作曲により童謡として世にでた。昭和61年、麻布十番商店街は十番にある火除地みたいな所に多目的広場を作った。昭和から平成に替わった時、ここに「きみちゃん」像がつくられた。諸説あるようだが、赤い靴を履いていた女の子は「佐野きみ」といい、野口雨情が北海道の新聞社勤務時代の同僚、鈴木志郎の妻となった「岩崎かよ」の連れ子だったといいます。かよは娘のきみを母の入婿であった佐野安吉の養女として佐野姓を名乗らせています。かよは志郎と再婚して羊蹄山山麓虻田郡真狩村の平民社農場に入植する時、連れ子のきみを養女に出したのか、施設に預けたのかはっきりしないが、いずれにしても「かよ」は「きみ」を手放している。志郎が開拓に失敗して新聞社に勤めたとき同じ会社にいたのが雨情、幾つかの事柄を都合よく合わせて1つの物語を作りだす事もあり、雨情は鈴木家から「きみ」の話を聞いてこの「赤い靴」の詩を作ったのだろうか。
鳥居坂教会百年史によると「布教と教育と福祉」というのがメソジストの三本の柱で、「鳥居坂教会」「東洋英和」「孤児院」というのが対応していたという。当初の孤児院は麻布一本松在か麻布本村町在なのか不明ですが、明治四十一年(1908)に麻布永坂五十番地に移転し、一階は日曜学校、二階は永坂孤女院に使われていた。永坂孤女院は東洋英和女学校の付属孤児院というべきものであったという。
「キングスドオタース会記事」明治四十四年十月四日の項に「麻布長坂孤女院ノ佐能君子葬儀ノ際花輪一個贈リシ事」の記述があるという。記録によれば、佐野きみ・明治四十四年九月十五日死亡・死因結核性腹膜炎・日本メソジスト麻布教会墓地に埋葬とある。
青山霊園に日本基督教団鳥居坂教会墓地を訪ねた。
 
青山霊園には何十回と訪ねたが管理事務所の玄関を入った所に「きみちゃん」像があるのを長い間、気が付かなかった。
 
横浜の「きみちゃん」像も訪ねた。

 
 
 

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