会津の七日町に阿弥陀寺というお寺がある。
ここに戊辰戦争殉難者の戦死墓がある。
この戦死墓は、明治元戊辰年八月廿三日後、若松城中にて戦死者の
屍を官軍方に阿弥陀寺への送葬を願い出て、当(明治2年)二月廿四日から、
改葬方は領地戦地に赴き、また引続き城中の屍も残らず阿弥陀寺に集め、
次いで郭内外の仮埋の場所より纏めた人数は都合千二百八十一人を改葬した。
1つは東西四間余、南北十二間余、高さ四尺、壇を築き戦死塚として、
もう1つは戦死の者、城下所々寺々の埋葬仮埋葬地から、少しづつ土を
集め、東西弐間、南北弐間半、高さ七尺程、四方に柵を廻し、戦死者を
いたむ為の招魂場を築立した。
現在の墳墓は、奥に会津藩相萱野長修遥拝碑、その前面、左に「報国尽忠碑」
右に「戦死墓」が建っていて、四方を柵で囲まれている。
報国尽忠碑は明治十年西南役に殉ぜられた佐川官兵衛ほか七十名の名が
刻まれている。
この正面の鉄の扉に浮彫の葵紋がある。阿弥陀寺の葵紋を
図案化してみた。なんとなく葉の数が多い。
19年8月、同じ鉄柵にあった古い葵紋は19葉の会津葵。
22年9月、阿弥陀寺にあった新しい葵紋は葉が21枚。
会津藩家世実記によれば、会津保科家が「松平之御称号、葵之御紋
御拝領」を許されたのが元禄九年(1696)、会津松平の家紋は
宮崎十三八著「手作り会津史」に、当時の徳川五代将軍綱吉と同型
紋を使用とあるが綱吉の使用葵紋は23蕊と27蕊の葵紋。
御服所後藤縫殿助書き上げの「御紋控書」にある家綱の19蕊の葵紋と
阿弥陀寺の葵紋は同型(巴の茎の太さは異なる)だった。これは
会津藩の正史「家世実記」によれば、将軍、保科正之に松平姓並びに
葵の御紋を受けるもこれを辞退したのが寛文八年(1668)だという。
この時の将軍が四代将軍家綱、会津藩も葵紋の蕊の数では苦労している。
阿弥陀寺の新しい葵紋の一番上の部分は蕊がないので、これもやはり
19蕊の会津葵紋ということか。
ここに戊辰戦争殉難者の戦死墓がある。
この戦死墓は、明治元戊辰年八月廿三日後、若松城中にて戦死者の
屍を官軍方に阿弥陀寺への送葬を願い出て、当(明治2年)二月廿四日から、
改葬方は領地戦地に赴き、また引続き城中の屍も残らず阿弥陀寺に集め、
次いで郭内外の仮埋の場所より纏めた人数は都合千二百八十一人を改葬した。
1つは東西四間余、南北十二間余、高さ四尺、壇を築き戦死塚として、
もう1つは戦死の者、城下所々寺々の埋葬仮埋葬地から、少しづつ土を
集め、東西弐間、南北弐間半、高さ七尺程、四方に柵を廻し、戦死者を
いたむ為の招魂場を築立した。
現在の墳墓は、奥に会津藩相萱野長修遥拝碑、その前面、左に「報国尽忠碑」
右に「戦死墓」が建っていて、四方を柵で囲まれている。
報国尽忠碑は明治十年西南役に殉ぜられた佐川官兵衛ほか七十名の名が
刻まれている。
この正面の鉄の扉に浮彫の葵紋がある。阿弥陀寺の葵紋を
図案化してみた。なんとなく葉の数が多い。
19年8月、同じ鉄柵にあった古い葵紋は19葉の会津葵。
22年9月、阿弥陀寺にあった新しい葵紋は葉が21枚。
会津藩家世実記によれば、会津保科家が「松平之御称号、葵之御紋
御拝領」を許されたのが元禄九年(1696)、会津松平の家紋は
宮崎十三八著「手作り会津史」に、当時の徳川五代将軍綱吉と同型
紋を使用とあるが綱吉の使用葵紋は23蕊と27蕊の葵紋。
御服所後藤縫殿助書き上げの「御紋控書」にある家綱の19蕊の葵紋と
阿弥陀寺の葵紋は同型(巴の茎の太さは異なる)だった。これは
会津藩の正史「家世実記」によれば、将軍、保科正之に松平姓並びに
葵の御紋を受けるもこれを辞退したのが寛文八年(1668)だという。
この時の将軍が四代将軍家綱、会津藩も葵紋の蕊の数では苦労している。
阿弥陀寺の新しい葵紋の一番上の部分は蕊がないので、これもやはり
19蕊の会津葵紋ということか。
おりました。御三階櫓のも。額を聞いたけれども驚いたことしか覚えていない。
会津葵、実は藤田家でも使用されているのです。家紋として。
どんな葵なのか見てみたいです。
直系の藤田家墓石です。紋は一つでないとも
聞いてますから墓石の会津葵は、家紋とは
別かもしれません。藤田五郎が着用した
服の家紋は、また別ですし。
見性尼の菩提寺の葵紋は、様々で。何故だ
ろう。
どんな種類の葵紋が残っているか判り
ませんが、見性院の霊廟は大牧村の采地
に承応三年に作られ、そのあと、数度の
補修がなされていますから、色々な
葵紋が混ざっているのではないですか。