大佗坊の在目在口

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豊橋陸軍墓地

2017-10-15 | 

新所原駅から豊橋駅までは10分程度で着く。駅前からタクシーで豊橋陸軍墓地に向かう。運転手も正面入口が分からず、一方通行の道をウロウロ探し回る。豊橋陸軍墓地は東田町にあるがどの地図にもその記載がないのが不思議な感じがする。陸軍の埋葬地は明治三年(1970)、大阪の真田山を兵隊の埋葬地にする計画が具申されたのが最初で、翌年の明治四年四月、真田山が陸軍最初の埋葬地として成立する。同年八月、東京、大阪、鎮西、東北に鎮台が設置され、それ以降、各鎮台に埋葬地が定められていった。豊橋陸軍墓地は明治十八年(1885)、旧藩時代に刑場となっていた東田町字東前山に設置され、明治三十年(1897)に現在地に移り、昭和57年(1982)、ここに公園を造り、戦前の約三分の一の広さに縮小された。
 

墓地には合葬墓・碑十六基、豊橋市教育委員会の説明によると個人墓は将校三十一基、下士・兵卒五十産二基、清兵の墓標一基があり、他に将校の馬の塚がある。
 
 
明治維新以降病死者銅板碑 明治維新以降戦死者銅板碑
 
 
陸軍軍人合葬之墓  明治三十七八年戦役戦病死者之碑 追悼碑
 
 
歩兵第十八聯隊は大正十四年に北満州派遣戦死者建碑の為、東田字西前山陸軍埋葬地内 〇.四六坪の使用を第三師団長に申請して決済を受けている。この碑は北満州忠死者之墓として昭和三年支那事変忠死者之碑と並んで建てられている。
北満州忠死者之墓・昭和三年支那事変忠死者之碑   満洲事変戦病歿者合葬碑
 
支那事変並大東亜戦争戦没勇士之碑 工兵第三大隊戦病死者合葬之墓 
 
平和の礎 騎兵第二十五連隊 鎮魂碑 騎兵第四旅団輜重隊
 
清兵の墓標は、日清戦争で捕虜となった清国兵張四元の墓で、明治二十七年九月、東京に護送中の捕虜の内、張四元は列車中に於いて急性脳貧血症を発し死亡し豊橋にて降ろされ同地陸軍埋葬地の一隅に埋葬された。左側に「将校の馬の塚」というのがあった。日清戦争に参加した歩兵第十八聯隊の聯隊長などが騎乗し、戦病死した馬の塚だという。 
 

各合葬墓・碑の説明は豊橋市美術博物館H・Pの陸軍墓地に詳しい説明がある。
(案内板にある於満州忠死者之墓の於は北の誤読)
明治維新以降戦死者銅板碑
明治32年(1899)、八町練兵場南側(現在の八町通4丁目)に建てられた軍人記念碑の左右に建てられていた碑で、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争等の戦病死者の名が記されています。軍人記念碑は大正5年(1916)には練兵場内北側に縮小移転されたので、この碑も同じ頃、陸軍墓地に移されたと考えられます(豊橋市美術博物館H・Pの陸軍墓地より)

 

 

 

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