大佗坊の在目在口

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鳥取 円護寺「吉川経家公墓所」

2017-07-21 | 

6時間掛かって小田原から鳥取に着いた。平日の午後だったせいか駅前の人の少なさにびっくりする。
 
まず「吉川経家公墓所」のある円護寺吉川公園に向かった。吉川経家は織田信長の属将豊臣秀吉の中国攻めで有名になった三木ノ干殺(ホシコロシ)、鳥取ノ渇餓殺(カツヤカシコロシ)の鳥取城の守将で、自刃後、首は京都に送られ、胴体は円護村より二町余奥五反田と云と処に方三間あまり丘上に安置されたという。江戸後期に出版された米逸処著の「無駄安留記」では吉川氏古墳(村より奥ノ谷)田圃のなかにあり。谷奥の方なり。これ吉川氏の古墳也と実にあっさりとした記述で、思うに吉川経家の話がよく語られるようになったのは、会津の白虎隊と同じように明治後年からではないだろうか。墓所に鳥取市教育委員会による説明板があった。

「吉川経家公は、天正九年(一五八一)の羽柴秀吉による鳥取城攻略に備え、中国地方の雄毛利氏から鳥取城将として派遣されてきたものである。羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で、展開された。織田信長への服属の意を示した鳥取城主山名豊国の方針を不満とした森下道誉・中村春続らの因幡国方衆は、豊国を追放して、毛利氏に鳥取守城のための城将派遣を要請した。天正九年三月一八日、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として鳥取城に入った。同年七月一二日、信長の派遣した部将羽柴秀吉は鳥取に到着し、鳥取城背後の東北の山頂(現在の太閤ヶ平)に本陣を置き、前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。これを迎え撃つ鳥取城の兵力は、芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヵ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰ひ候」という状況となった。ついに一〇月二五日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。死の前日、一〇月二四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。この五輪塔は、その吉川経家主従の墓と伝えられているものである。」
 
 
 
公園の後に円護寺を訪ねた。地図では近くにあり、お寺らしき屋根は見えるものの、お寺への道が分からず、新興住宅街の中を20分もウロウロしたが、限界集落みたいに全く住民と会わず、決局諦めて玄忠寺・景福寺に向かう事にした。

頌碑
天正九年の昔豊臣秀吉は織田信長の命を奉じ數萬の大軍を以て我が鳥取城を攻圍した城将吉川経家公は寡兵を以て頑強に籠城すること百數十日糧食全く盡きて餓死相踵く公は夙に吉川元春卿の知遇に感激し其の使命の重大なるを自覚するも斯かる悲惨な状態を持続するに忍びず一死衆命を助け臣節を全うし名誉を千歳に傳へんことを秀吉に懇請して其の許諾を得た斯くて遺書數通を認めて喪情を陳べ十月二十五日左の辞世を口吟して壮烈な最期を遂げた時に齢三十五公の処置及び其の態度は實に戦国武士の本領を発揮し其の意気を表示したもので其の偉蹟は永く久松山の雄姿と共に景仰せられている

  君が名をあだになさじと思うゆへ  末の世までと残し置く哉
     いにしえのかりの庵と住かへて   もとの都にかえりこそすれ

陰文:昭和三年二十五日三百四十八年祭に当りて墓地改装と共に之を建つ
傍の吉川経家之墓の石柱に旧墓地九坪寄付者当村田中勝次とあった。

参考
辞世の句 「武士(もののふ)の取り傳へたる梓弓 かえるや元の栖家ならん」(因幡国史談 明治三十六年より)吉川経家筆(男爵吉川経健蔵)「史微墨宝 明治二十二年より」
我等於鳥取御用被可候内々覚悟之前候條 不到忘却候 日本貮ツ之御弓矢於堺及倅腹候事 末代之可為名誉存候 累年別而御芳情之段 望其期失念不申候 存之程不得申候 随而奉預候長光刀 息亀寿所へ被遣候て可被下候 恐惶謹言 十月二十四日 式部少輔 経家 花押経言様 参人々御中

 

 

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