リスタートのブログ

住宅関連の文章を載せていましたが、メーカーとの付き合いがなくなったのでオヤジのひとり言に内容を変えました。

91歳の母ちゃん先生

2015-11-15 08:27:00 | オヤジの日記
母が、今年の10月8日で91歳になった。

母は、川崎で姉と暮らしていたが、3年前、姉が死んだことで一人になった。
川崎で一人暮らしをさせるわけにはいかないので、武蔵野のおんぼろアパートの近くに、バリアフリーのワンルームマンションを借りて、そこにいま住んでもらっている。

おんぼろアパートからは、自転車で4分程度のところだ。

朝晩の食事は、私が大量に作って、日付ごとに分けて冷凍庫に保存したものを、電子レンジで解凍して食べてもらった。
平日の昼はヘルパーさんが作ってくれたものを食べてもらった。

ヘルパーさんの来ない土日の昼間は、私のヨメと娘が掃除と洗濯のついでに昼メシを作って、それを食べてもらっていた。

役所の評価では、一番軽い度数の認知症と判断されたが、理解力は少々落ちていたとしても、人との会話に支障はなかった。
ただ、足腰が弱っていたので、肉体的な部分では、ある動作だけは人に頼らざるを得なかった。

息子の目から見たら、そんな母の人生は波乱万丈だったと言える。
20代前半に肺結核に罹ったため、初めて就職したのは30歳を間近に控えたときだった。

最初は、中学の国語教師。
そして、30半ばを過ぎたとき、受け持っていたクラスの父兄からヘッドハンティングを受けて、給料のいい信託銀行に転職した。

そこでは、当時の女性としては珍しく課長にまで出世して、定年を迎えた。
そのあとの10年間、同じ銀行に嘱託として勤めた。

フルタイムで働いていた母は、いつも帰りが遅かった。

なぜそんなに働くのかといえば、夫が家に帰ってこなかったからだ。
母の夫は、一流会社に勤めていたのに、稼いだ金を一銭も家に入れずに、新橋や銀座に金を捨てた。
夫が金を出さないのだから、病弱な母が働くしかなかった。

そして、母は、もう一つの悩みを抱えていた。

娘が、社会から背を向けて、高校卒業後ひきこもってしまったのだ。
姉は、自分以外の人や物が怖くて、自分で心の檻を作り、すべてを遮断して40年間小さな部屋で暮らし続けた。

今なら、「発達障害」と診断されるところだろうが、当時の社会では「ただのナマケモノ」としか見てもらえなかった。

母は、姉のことをいつも悔やんでいた。
「私の育て方が悪かったのよ」

それは違うと思ったが、母を説得する材料を持っていなかった私は、黙るしかなかった。

家族を養うために、ひとり懸命に働き続けた母の心が休まることはなかったと思う。
冷酷な言い方になるが、母の心が休まったのは、娘が死に、夫が死んだときではないだろうか。

私が母に、父が死んだことを告げて、葬儀には行きますかと聞いたとき、母は「他人様が死んだだけですから」と下を向いたまま顔を上げなかった。
娘が死んだときは、「島根県のお墓に葬ってくださいね」と、私に向かって頭を下げた。

母の本当の心の内はわからないが、二つの記憶を無理やり消そうとしているように、私には思えた。


91歳の誕生日。

友人の尾崎と一緒に、母の好きなどら焼きでお祝いをした。
母の大好きなコカ・コーラで乾杯をした。

尾崎に向かって、母は「尾崎くんは私の次男ですものね」と言った。
尾崎は、その言葉を聞いて、感激していた。

私の友人の尾崎は、私以上の「はみ出しもの」だった。

偏差値の高い高校に入学したにもかかわらず、2週間で学校を辞めた。
そして、そのあと、尾崎曰く「犯罪者にならない程度の悪さはなんでもやった」時代を10年近く過ごした。

私が26歳、尾崎が24歳のとき、私たちは地方の駅で遭遇し、どういうわけか変な化学反応を起こして、二人は友だちになった。

尾崎の外見からは、危ない空気がいつも発散されていた。
今でも、中野や阿佐ヶ谷を歩いていると、すれ違うチンピラが道を譲るほどの危うさを持っていた。

「喧嘩は百戦百勝」と尾崎はいつも言う。
滅法強いのだ。

私は、尾崎の喧嘩の場面に2回遭遇したことがあった。
一度は渋谷宇田川町で、深夜6人の男にからまれたときだった。
尾崎は、あっという間に5人の男を地面に這わせてしまったのだ。
最後の一人は、それを見て戦意喪失し、何を考えたか、財布を放り投げて逃走したのである。

いつでも逃げられる準備をしていた私としては、夢を見た思いだった。

2回目は、新宿の居酒屋。
格闘技でもやっていそうな屈強の男が二人、尾崎に難癖をつけた。
店に迷惑をかけるのを嫌った尾崎は二人を店の外に誘った。
そして、2分後に、苦笑いを浮かべて帰ってきた。

尾崎はそのとき右手の指を二本立てた。
尾崎がVサインをするとは珍しいなと思ったが、違っていた。
「2発だった」と言うのである。

つまり、一人一発で倒したということだ。

170センチ50キロ程度の細い男が、倍くらいありそうな男を一発で倒す。
まるで漫画だが、尾崎は漫画の主人公のように強かった。

その「はみ出しもの」の尾崎を30年近く前のことだが、私の母に紹介したことがあった。
誰もがその姿を注視するのをためらうほど危険な匂いを振りまく尾崎だったが、かつて教育者だった私の母は、絶対に尾崎を気にいるだろうという確信が私にはあった。

その推測は当たって、母は尾崎をすぐに気に入り、尾崎も母に心酔した。
それからの尾崎は、私の母を「母ちゃん先生」と呼んで慕った。

尾崎と私は一年以上合わないことがざらにあったが、そんなときでも尾崎は、私の母には会いに行ってくれたのである。

「母ちゃん先生の91歳の誕生日をやろうぜ」と言ってくれたのも尾崎だった。

尾崎が、母に聞いた。
「母ちゃん先生、いくつになった?」

「91歳」

「今日は、何月何日?」

「10月8日」

尾崎は、嬉しそうだった。
母と話しながら、時折、目に水を貯めることもあった。

そして、母も嬉しそうだった。
母にとっては、今の時間が長い人生の中で、一番楽しいときなのかもしれない。

それは、考えようによっては悲しくも思えるが、母の嬉しい顔を見るのは、息子の私にも嬉しいものだった。


母の人生。

それは、病気との闘いだった。

若い頃の肺結核。
それが再発したのが、70歳を過ぎてからだった。

そして、その治療に使う薬が強すぎたせいで、母は難病の再生不良性貧血になった。
(再生不良性貧血は完治が難しい病気らしいが、思い切って試用医薬品を使ったことによって、母の骨髄は正常に機能するようになった)
そのあとは、鼻の奥にカビが生える真菌症(毎日大量の鼻血を流した)。
さらに、気管支拡張症になり、80歳すぎに3回のカテーテル手術を受けた。

どの段階で死んでもおかしくはなかったが、母は、その都度、病を乗り越えた。
とても強い人なのだ。

なぜだろうか、と私は考えた。

そして、一つの結論を得た。


俺が、親孝行をしていないからだ。


母は、自分の息子が親孝行をするまで死ねない、と思っているのではないだろうか。
その思いが、母を「長寿の道」へと導いているのかもしれない、と私は思った。

母が定義する「親孝行」とは何だろうか、と最近の私は絶えず考えている。
しかし、どれほど考えても答えは見つからない。


俺は母に、どんなふうに感謝したらいい?


尾崎が車を停めた駐車場まで歩いて行く途中、私は尾崎に、そのことを話した。

尾崎が、いきなり私のケツを叩いた。
「おまえ一人で背負い込むなよ。俺は、何のためにいると思っているんだ?
俺は母ちゃん先生の『次男』だぜ。次男は長男を助けるもんだろうが。違うか?」


不意を打たれた気分で、私は尾崎の目を見た。

私たちの会話では、普段ほとんど目を見交わすことはなかったが、このときはお互いを見つめた。

そして、私の目を強い光で射るように見て、尾崎がまた言った。

「俺はおまえの弟だ。
俺はおまえの命令なら何でも聞く。
自分が独りだとは、思うなよ」



尾崎が友だちで良かったと思った。

尾崎となら、ふたりで親孝行できると思った。